帰りたくないよ

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 「そろそろ帰るね」の一言がないまま、夜になろうとしている。彼は僕の袖を引っ張った。 「生クリームの入ったココアちょうだい」  八畳の部屋で、小さな机に二人向かい合って座っていた。初夏の風がカーテンを揺らす。俺は見ていたスマホを置く。 「ちょっと、時間もらいますよ」 「うん」  そばにおいていたクーラーボックスを開けて、生クリームを取り出す。 「というか、まだここにいていいんですか?」 「どうして?」  立ち上がって、キッチンに向かう。ボールを取り出して、その中にとコップ、手動泡だて器、ココア、ティースプーンを入れた。 「マネージャーさんに怒られますよ。この前だって、収録に遅れたんでしょう?」 「うん。まあでも、僕より遅れた人いたから」 「それに、週刊誌から抜かれましたよね。後輩アイドルの家に入り浸ってるって」 「後輩アイドル……君のこと?」 「みたいです」  彼の待つ狭い机に、ボウルを置いた。中へ生クリームとココアを入れる。 「ああ、それは気にしてないよ。君はもう有名だし」 「どういうことですか?」 「君の名前も僕の名前も、その程度のスキャンダルじゃ傷つかないってこと」 「それはあなただけでしょう。僕はデビューして二年ですよ。まだまだ新人です」  泡だて器を使って混ぜる。 「そうかな」 「そうですよ」 そうだよ。この人は中学生でスカウトからのデビュー、僕は2年前にオーディション合格でなんとかデビューした。この人は輝かしいアイドルの王道を歩んで、国内ツアー、海外公演と華麗なるアイドル道を歩いている。僕はしがないシンガーソングライターで、曲を書いて書いて、没になって没になって、上手くいったと思ったらあんまりヒットしなくてを繰り返してる。そろそろ仕事が来なくなる気がする。 だけど、そういうことを口頭で説明し始めると、少し寂しそうに俺を見る。きっと、俺とあなたは違うと明確に説明してしまったら、この人はもうこの家に来なくなる気がする。  それは、寂しい。 「あ、ふわふわになってきた」 「はい。コップに牛乳入れてもらっていいですか?」 「うん」  彼はクーラーボックスから牛乳を取り出して、コップに注いでいく。 「ねえ、メジャーある?」 「無いです」 「隠してるでしょ」 「はい」 「どうして?」 「家具を送るつもりでしょ」 「よく分かったね」 何の因果か知らないが、僕は彼にえらく気に入られていた。防音性だけを見て高い家賃の狭い部屋に越した僕へ、高性能のクーラーボックスとIH簡易コンロをくれた。毎月何千万という稼ぎを出している彼が、地味なものをセレクトしているという事実に脳がバグる。ただ、切実に助かる。ふと感情的になったタイミングで部屋を照らす電気を見ていると、「今この瞬間にもお金は減っている」と考えてしまい気が狂いそうになる。電気は消せるから良いが、冷蔵庫の電源は多分抜けない。そしたらまたおかしくなるかもしれない。 「……夜になるね」 部屋が少しずつ暗くなる。日が沈むと眠る生活をおくっているので、いつもなら布団を敷いて眠る準備をしている。 「ください」 「うん」 俺は彼からコップを受け取って、作ったクリームをスプーンで落とした。蓋をするように牛乳を覆い、甘い香りがふんわりと香る。ティースプーンをつけて、彼に差し出した。 「どうぞ」 「ありがとう。……おいしい」  いつも疑問に思うのだが、普段食費に何十万をかけていると噂の人が、スーパーで買ってきた生クリームにおいしさを感じるものなのだろうか。いや、食費の話はあくまで噂なのかな。そうじゃなければ、足しげくここに通って安いサンドイッチやココアを飲むか?  こう言うのは少し失礼かもしれないけど、安いのが好きなのかな。高いものばかり食べてるから、逆に安いのが欲しいとか? 彼が分からない。数時間のオフでわざわざ何も無い家に来る理由が。そこまでして、そんなにも——俺が——いや、この家が! この場所が、好きなのか。 「これ、飲んだら帰るよ」 「はい」 彼はゆっくり飲むから、きっと1時間くらいはここにいるだろう。僕は電池式の卓上ランプを机の上に持ってきて、電源を入れた。 「なんか、取調室みたい」 俺もそれは思った。 「……」 ふと歌を口ずさむ。過去にボツをくらったもので、誰の耳に留まる機会を失ったものだ。彼は静かに曲を聴いていた。 生クリームが溶けている。 歌詞に生クリームが混入した。でも違和感はない。彼は黙って飲んでいる。 俺は何だか、ああ、ダメだ。 「…………あー」 虚無感と無力感に襲われて、机に顔を突っ伏す。 「良い歌だね。新曲?」 「ボツです」 「そう。僕なら買うけど」 「うー」 それじゃダメなんだ。大勢の人が、胸を打つような歌を作らないといけないんだ。 「いー」 卓上電気を消した。部屋がほとんど闇に沈んだ。おわ、と驚く声。 「俺、地元帰ろうかな……東京来たって何にもないし」 生クリームの甘い香り。 「元々芸能事務所で働きたかったから上京しただけだし。地元に帰って公務員試験でも受けて、役所で働こうかな」 彼が電気をさりげなくつけたのですぐ消した。 「聞いてます?」 「聞いてる。地元の郵便局で働きたいんだよね」 「絶妙に違う」 郵便局は公務員じゃねーよ。昔はそうだったらしいけど。 「やになるんですよ、たまに」 「僕は常にやだけど」 え、と顔を上げる。 「ほら」 差し出される。暗くなった視界でも、何を差し出されたか、まあわかる。口を軽くあけると、多分、スプーンが差し込まれた。口を閉じて舌で触れる。甘い。 「この生クリームしか、今生きがいが無くってね。いつ死んだっていいんだよ」 ——俺は電気をつけた。 飄々として、眩しくて。この世から消えてしまったら、世界が変わってしまうほど存在感の強い人。 彼は一瞬驚いて、すぐに口角を上げた。 「バーカ」 そう言いながら、俺の口からスプーンを抜き取る。楽しそうだ。 「嫌なんですか、アイドル」 「うん」 「何で」 返事は無かった。 生クリームがほとんど無くなった。 「ココア、甘くて好きだったんだ」 口をつける。喉を通る。残量が減る。 「でもね」 二割減った。彼は呟く。 「生クリームを知ってからは、それが1番になった。普通のココアだと、物足りなくなって」  彼はコップを置いた。 「……これはさ、君がいれてくれたものだから、飲みきるモチベーションもあるんだ。美味しいし……」 手は動かない。 「やだなあ」  窓の外を眺めている。ベランダがあって、その向こうは塀に遮られて見えないだろう。都会じゃ夜空も満足に見れない。 沈黙。 cfe15052-b31a-4cad-b295-577fd98e48a7 「帰るよ」 立ち上がった。ココアを残している。こんなこと今までに一度もなかった。 「次の収録があるから」 マネージャーから鬼電されてようやく帰るこの人が、次の収録の為にもう帰るって。 「またね」 ふつふつと浮かぶ違和感。 本能が叫んだ。 「帰らないで!」 僕は彼の手を取っていた。 「……今、帰っちゃダメ。お願いだから」 「何で?」 だっておかしいもん。 とは、言えなかった。ただ、放っておくことも出来る違和感が浮かんで、俺は無視を選ばなかっただけ。 「…………お願い、します」 行かないで。 「やだなあ」 「!」 「君にそういうことを言わせるの、悪いな……でも……」 彼は少しためらって、もう一度座った。 「……ココア、飲んでよ」 「えっ」 「僕のやつ」 まだ残ってる。彼は俺を、試すように眺めている。 俺は——彼の視線を感じながら、コップを手に取って、喉へ流す。すこし粘っこくて、今の季節には少し合わない味がする。 「あは」 彼は楽しそうに笑う。 「……ごちそうさまです」 コップを置く。カラ、と氷が揺れる。 「ありがとう」  彼は安心したように呟いた。  
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