眠れぬ夜のセイレーン

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 こんなにもひっそりとした海辺の里は初めてだ――と、集炎(しゅうえん)は語った。旅の僧として村に来て、まだ日の浅い頃だった。  海辺――といっても、砂浜も港も持たない日背の村だ。磯のにおいが薄いせいだろうか――岩にぶつかる波は砂を洗う波よりもきっとずっと大きく鳴っているだろうに――しきりに不思議がって首をひねっていた集炎のようすを、清冷(せいれい)はいまも忘れてはいない。  二本だった幹を絡めて一つ所に伸びる松は、常世でまで固く結ばれる恋の縁起もの。林を抜けながら見つけた二本松に倣うつもりで、二人はつなぐ手の力を強めた。  入り江のうちで一番空に近い岩場に立って、淡い星の光を跳ね返す濃い墨のような海を見下ろす。  抱き合ったまま、二人は海へと身を投げた。  脚が潰れるほどの激しい痛みがあった。これがこの世で受ける最後の痛みなのだと清冷は信じて、集炎のからだにさらに身を寄せた。  せっかく孤独に生まれついて、せっかくこの歳までも生き延びたのに。孤独な一人ずつが出合ったのに。どうしてこの世は清冷と集炎が幸せな二人になることを許してはくれなかった。  村には寺がなかった。  集炎は在家の和尚として村に住みつくことを望まれていた。仏の教えとはかかわりなく、この村に於いては和尚ならば子をなすことが望まれた。  そうであるならば、相手は清冷ではならなかったのだ。清冷の胎が子を宿さぬことは村の大人ならばだれもが知っていた。  清冷は自分がこの村に暮らす所以を知らない。物心つくまで生き長らえたからには世話を焼く者があったはずなのに、清冷の記憶は一人きりで始まる。ようやく始まった記憶のなかに、過去を語って聞かせる者はすでになかった。  売春宿の一つも商売女の一人もない村で、清冷はその身の春を貪られていた。  気まぐれに小屋に投げ込まれる食いものを、自分のからだが必要としていないことにはずっと気づいていた。けものに放るように差し出される食いものを、清冷もまた海鳥へと投げてやった。自分には真水も必要ではなかった。日に五度ほども海の水を浴びて口をゆすげば生きていられた。それが「人」のありようとあまりにちがうと知るには、清冷はあまりに「人」を知らなかった。孤独が過ぎて、自分を皆と同じだと思い込んでいた。  集炎は旅の僧だった。ものを知る人だった。だからきっと――いまから思えば――気づいていたのだろう。清冷が化けものであることを、集炎はわかっていたのだろう。日に何度も海を欲する清冷を連れては村を離れられないことさえ、わかっていたのだろう。  清冷は満月の下にいた。  あんなにも近くにいたはずの集炎のすがたはどこにもなかった。永久に背をむけたはずだった村の入り江にある大岩に、清冷は一人腰を下ろしていた。  あの夜は新月だった。あれから半月を経た晩なのか、もっとちがう月日の果てなのか――。  最後に感じた痛みを手繰ることさえできない。あの時ぶつけたのはちょうどすねの骨の辺りだったと思う。いまの清冷にない部分だ。清冷の腰から下は鱗に覆われた――魚のすがたに変わっていた。  爪の先まで人のかたちをしていた頃には集炎に愛を告げることさえ許さなかった出来損ないののどが、いまは世にもうつくしい歌を鳴らす。  集炎と永遠を誓ったはずだった。海の底にきっと自分たちの楽園へ通ずる道があることを、清冷は願った。  集炎のことを思えばいまさらにも胸が鳴ることに耐えられなかった。冷たい海よりも遥かに温かなものがからだを巡るのを感じた。どうかこのまま内側からからだが焼け切れてくれないものか――どうか。  諸国を知る集炎がどうして清冷につき合ってくれたのか、いまとなってはわからない。集炎に訊ねることももう叶わない。集炎だけならこの村を離れることは容易かったはずだ。共に村を出て、たとえ半日と持たず干上がったとしたって、集炎に死に水をとられるならば清冷は幸せだったろう。  燈火のない村へ船がつくことはない。けれど今夜は清冷の歌に誘われた一隻の立派な船が入り江へと迷い込んできた。  清冷のいる大岩を越えて、船は村へと近づき――座礁した。  常にない物音に起き出した村から、人影が船に群がる。さながら巨大な死骸に群がる蟻のように。  怒号が弾ける。船に火がかかる。血のにおいを覆い隠すには、やはりこの入り江の薄い磯のにおいでは足りない。  村が歓喜に沸くのを見るともなく、聴くともなく――知った。
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