おきつねさまのきまぐれ

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 荒くたい駆動で道脇に寄って来た車は、すすきの茂みに鼻先を突っ込むかたちで停車をした。  運転席から転がるように飛び出した人けらが自らの口へと手をやって、忙しなくのど元をくふくふと鳴らしている。  茂みのなかに屈み込むや、背を突き出すように跳ねさせた。  裏返った胃の腑を浚うようにげーげーと胸を喘がせている。  おれの鼻は戻されたものをつまびらかに嗅ぎとる。  まずは玉ねぎ。それからちーず、さらみ、べーこん、とまと、ぴーまん、どらいいーすと、焦げた澱粉――ああこれは、ぴざとーすと、という人けらの食いものだ。隣り山の狸が人けらに分けられたのを喜んで食らっていたから知っている。玉ねぎは毒だというのに、お構いなしに狸は食らう。悪食なのだ。だから狸の命は短い。狐に比べて神格を得ることが少ないのもそのせいだろう。  すすきの群生をすり抜け、うずくまる人けらに声をかけてやった。 「人けらとて、こんなもの、食らってよい時と悪い時があろうに」  胃液のよく絡んだその吐瀉物を目を眇めて見下ろす。晴れた日の夕焼けのような黄色がかった朱色はうつくしいものの。  狸よりも悪食で、俗物。それは人けらに対する我ら信田者(しのだもの)の総意だ。 「米……櫃がからっぽで、袋から出す気力もなくて……腹の足しになりそうなもんそれしかなかったんだよ、今朝」  人けらのつるりとした顔面(おもて)は被毛もなく剥き出しで、透き通るようにその身のうちを晒す。血の気の失せた顔色を隠すこともできないくせに、どうやら生意気にもおれの声に反駁しているようだ。もっとも、だれに申し開きをしているのか、もはや定かではないのだろうが。  軽やかな夕焼けの色が、白い着物に散り、手――器用なはずの人けらの手――までべたべたに汚している。  おれは立ち上がり――手を、人けらと揃いのかたちに変えると、そいつの着物の汚れていないところを摑んだ。人けらの立ち入らないうつくしい湧き水へいざない、手を洗わせた。  傍らのすすきの穂を摘んで人けらの好むふかふかの手ぬぐいに変えて、渡す。  そいつのからだを車へと押し込んでやり、慣れない世話焼きを終えて山へ帰ろうとした――その時。 「待って、行かないで」  死にかけたようにぐったりとしておれに随うばかりだったそいつが手を伸ばした。  油断をしていたおれの尾の一本に、先ほど湧き水で清めたばかりの指が絡みつく。  思わずのどから漏れた、ケーンという高い声に、おれ自身が一番驚いた。  九本の尾を得て、この一帯の信田者の長(おさ)を言いつかって以来、心を乱されて鳴き声を上げるようなことは、ずっとなかったのだ。  それでも弱って握力をなくしている人けらの手から、すべらかな毛皮を引き抜くことは動作もなかった。  明くる日、おれが人けらのことを気にかけてやって山を下りてみれば、きのうの人けらが老いぼれた人けらと立ち話に興じていた。  きのうのきょうだと言うのに巣穴で回復を待つということもできないとは、さすが人けら。抜かりだらけだ。 「あんた、具合悪かったんだってねえ」 「そうなんすよ、それで仕事抜けて帰ってきてて、もう大丈夫なんですけど。なんか帰り、途中の路側帯に車停めて寝てたみたいで。シャツが汚れてたから吐いたんだと思うんですけど車のなかはきれいだし……あ、でもなんかやたら車のなかにすすきの綿が舞ってて」 「へえ。狸に化かされたみたいな話じゃないか」 「ほんとに。おれもそうなのかなって思ってて……なんか助けてもらった感じなんで、化かされたってのもあれですけど」  さらに聞き捨てならない話をしている人けらどもに、おれのひげがぴくぴくと引き攣った。  ――狸呼ばわりとは屈辱だ。  水辺で化かされるなら狸はだめだ狐がいいと、大昔から、おまえども人けらが言っていることではないか。  化かした人けらの背を押してゆく狸はすぐに人けらを淵に突き落とす。  その点、先に立って手を引いてやる狐は親切であろう。すすきの穂で手ぬぐいまで用意してやったというのに。  千々に乱れた心をごまかすように――というわけでは断じてない! が! ――おれは再びケーンと吠えて、山へと戻った。
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