イリシウム・ランデブー

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 心臓が胸を突き破りかねないほどに暴れている。  くやしいけれど、かれがおれのことを食らいたいと思っているわけじゃない。  おれが、かれに食われたくてしかたがないんだ。 「味見ならしてやってもいい」  と、尊大に言い放ったかれに、首を横にふることなんて、おれにはできなかった。  花が虫を誘うように、チョウチンアンコウが光で獲物をおびき寄せるように、セイレーンがうつくしい歌声で船を沈めてしまうように、希代のペテン師や猟奇殺人鬼が決まってあらゆる者を惹きつけてやまない仮面を身に着けているように――かれもまた、人間を魅了する捕食者だ。  クリームチーズのごとく白い膚に、きらきらと光と睦み合う金色の髪と双眸。  魅入られて蜘蛛の糸に囚われた獲物のほうはといえば、食われる時を心待ちに胸を高鳴らせているばかり。  おれの首すじに顔を寄せたかれが、さえた牙を剥く。  皮膚に当てられた牙をかれの唾液が伝って膚とシャツとが濡れるのがわかった。  すぐそばに感じるかれの息遣いに煽られるようにおれの息も、荒く、上がってゆく。  かれの牙が皮膚を破る――その衝撃はおれに恍惚だけを植えつけた。  覚悟していた痛みはなく、かれが本物の吸血鬼であるのだというとっくに知れたことに、どこか冷静に感心した。 「んっ……んっ……んぁ……」  血を吸い上げられるたびにおれののどが鳴る。まるでおれのほうが、のみものを与えられているみたいに。  宙に輝く糸で幾何学模様が紡がれるように視界がきらめいて、ふと、気が遠退く。  ぐらりと傾いだおれのからだを、かれが支え――そばのカウチへと投げ出した。 「な、なに……」  貧血のために目を白黒させるおれに、かれは不敵な笑みを浮かべ、見せつけるように舌なめずりをした。  青白いかれの口元を赤く汚しているのはおれの血なのだと思えば、快感がぞくりと背すじを這い上がった。 「私に食われたいと言ったのはおまえだろう」  かれの赤く薄い舌が、シャツの上からおれの胸元をなぶる。 「あ……それは、だから……血を……」 「ふん、血だけ啜らせれば身を捧げたことになるとでも?」 「だって、味見っつったの、そっちじゃん!」  強く言い返すとかれは金色のまなざしをぱちぱちと瞬かせ、顔を綻ばせた。 「ああ……悪くなかったぞ。血だけで済ませてやれなくなるくらいには、な」 「え……」  わざとだろう、かれはぐちゅぐちゅと下品な音を立てて口に唾液を溜めて、おれのシャツの襟ぐりから垂らし入れた。 「ちょ、冷た………………んっ?!」 「冷たくはなかろう」 「うそ、あ……あつ……、ん、ひゃ」  熱を孕みながら膚を伝い下りてゆくかれの唾液に、着たままのシャツをこすりつけて拭えば、まるで自慰でも強いられたかのようにからだが昂ぶってゆく。耐えかねてシャツを脱ぎ捨てれば、かれはまたにたにたと笑う。 「自分のからだを見せるのがそんなに楽しいか」 「なっちがっ」  床に落としたシャツについた薄桃色のしみは、おれの血のまじったかれの唾液によるものだ。  皮膚を食い破られても痛みを覚えさせられなかったのも、唾液に濡らされた場所が熱いのも、きっとかれの唾液の効力で。  ごくり、と、おれののどが鳴った。 「私に、食われたいんだろう?」  脳髄に幾重にも響く声音で、かれが訊ねた。  かれは人間を捕食するもの――魅入られれば抗えない。 「つば、のませて」 「ほう。私に指図をするのか」  あごを指先で掬われて、目をかたくつむる。  頬やのどもとをを探る冷えた感触はかれの鼻先で、さらさらとおれの膚を撫でながら息遣いを残してゆく。 「こんな赤い顔をして……唾をのませてやるにも唇を探さねばならんな……」  実に愉快げに嘯くかれの唇が、おれののどを吸い上げた。
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