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 貴滉は、真吏とメッセージアプリを使って連絡を取り合うようになっていた。しかし、朝の挨拶を最後に真吏との連絡が途絶えた。いつもなら他愛ない話題でもすぐに反応してくれる真吏なのだが、貴滉が会議に入る前に送ったメッセージに返答はなかった。  大手IT企業の社長ともなれば、多忙であることは貴滉でも理解出来た。だから、メッセージの返信を急かすこともなかったし、なくて当たり前だと思っていた。  貴滉が所属する営業部開発二課の定例会議は月に二回行われる。各自の営業活動の状況や進捗などを報告し、今後の方針を決めていく大切な会議だ。この日、ハザマ・エステートが主体となって新しく建設する大型分譲マンションのモデルルーム設置案についての検討がなされ、開発第一課との合同会議となった。通常二時間くらいで終えるはずの会議が大幅に延びたのは言うまでもない。  ブラインドを締め切ったままの会議室から出ると、廊下に面したガラス窓から赤い太陽が西に傾き始めているのが見えた。長時間に及ぶ会議で疲労感を隠せない営業部のメンバーは、皆その眩い光に目を細めながらフロアへと戻って行った。  貴滉と克臣は、使用した会議室内の片づけを簡単に行うと足早に部屋をあとにした。  あの日から克臣との間に見えない溝が出来てしまったようだ。またつまらない言い争いになることを避けるためか、克臣の口からThe Oneやそのスポンサーの話を聞くことはなくなった。貴滉もまた、自分が吐いた嘘に罪悪感を抱きながらも、克臣の知らないところで真吏との距離を確実に縮めていた。  スーツのポケットから取り出したスマートフォンの電源を入れる。しかし、メッセージアプリからの受信通知はなかった。こんな些細なことで一喜一憂している自分が恥ずかしく、そして幼稚だと思った。  会って食事をするたびに、自身に興味を抱いてくれる真吏。食い気味に質問してくる彼に構えていたフシもあったが、今では笑って答えられるようになっていた。  そして、真吏のことを一つ、また一つと知っていくたびに、貴滉の心の中にある抽斗に宝物が増えていくような気がした。誰に自慢するわけでもない。まして、コレクションとして見せびらかすわけでもない。  その宝物は、貴滉の心の中で少しずつ大きな存在に変わっていた。 「――今日はさすがに疲れたな。貴滉は残業しないで帰るだろ?」  隣を歩いていた克臣が貴滉を覗き込むように言った。慌ててスマートフォンをポケットに捻じ込むと、小さく首を横に振る。 「課長から頼まれてた物件案内資料をちょっと進めておきたいんだ。明日も外回りで、昼間は手を付けられそうにないし……。早く帰りたいのは山々だけど、今日はもう少し頑張っていくよ」 「あんまり無理するなよ。お前は真面目すぎる」 「克臣だって……こっそり残業してるの知ってるからな。お互い様だろ」 「あー。バレてたか……」  少し照れたように頭を掻きながら笑う克臣はいつもと変わらない。体育会系でガッシリとした体躯からは想像出来ない屈託のない表情は、疲労感を感じていた貴滉の心を和ませた。  真吏のことを悪く言われたからと言って、彼のことを心底嫌っているわけではない。あんなつまらない諍いがあったことが嘘のように接してくる克臣に、むしろ安心感さえ抱いている。  大小さまざまな会議室が集約された七階からエレベーターで三階に下りる。営業部のほぼ全員が出席した会議が終わり、長時間の緊張から解放されたせいかフロア内も和やかな雰囲気になっていた。休憩スペースからコーヒーのカップを持って出てくる者、喫煙室で切れかけたニコチンを補充する者……皆それぞれだ。  自分のデスクに戻った貴滉は小脇に抱えていたファイルを置くと、すぐにパソコンの電源を入れた。隣のデスクでは克臣が飲みかけだったコーヒーを喉に流し込みながら帰り支度を始めている。  ゆったりとした動作で貴滉が椅子に腰かけた時、開発二課の庶務係である上田(うえだ)史夏(ふみか)から声をかけられた。 「稲月くん!」  パッと顔を上げて彼女の方を見ると、何やらメモのらしきものを手に近づいてきた。 「お疲れ様。会議、長かったね……。お陰で私も帰るタイミング逃しちゃった」  三十歳手前の彼女は気さくで愛らしいが、かなり能力が高いβ性だ。最初は人材派遣会社からの紹介でここの庶務を任せられていたが、彼女の事務能力の高さに社員として起用されたと聞く。  α性である課長や部長とも対等にやり合えるほど頭の回転が速く、仕事も安心して任せられる頼もしい存在だ。 「お疲れ様です、上田さん。そっか……会議が終わるまでは電話番しなきゃいけないから帰れないのか」 「そうなのよ。まあ、独り身の私には何の予定もないんだけどね」 「またまた……。あ……それ、俺のですか?」  彼女が手にしていたメモに目を向けて問うた貴滉に、上田は不思議そうに顎に手を当てて首を傾けた。 「そうなんだけど……。稲月くん、浅香さんって方、知ってる?」 「浅香……」  貴滉はその名前に小さく息を呑んだ。記憶の中にある浅香という名字を持つ者は一人しかいない。クールウェブゲート社長秘書、浅香京介だ。 「会社名とか名乗らなかったんだけど、稲月くんに連絡が取りたいって。ほら、会議中はスマホの電源切ってるでしょ? 終わったら掛けなおすって伝えたけど……変な勧誘とかだったらマズイなって」 「あぁ……大丈夫です。彼は知り合いなので」 「良かったぁ~! いつでもいいって言ってたけど、早めに連絡してあげて」 「はい。ありがとうございました」  真吏が会いたいという時は必ず、浅香から貴滉の携帯に連絡がある。真吏の名刺の裏に書かれていた携帯番号からの着信は、泥酔した翌日にかかってきて以来一度もない。多忙なため、貴滉からの連絡は受け付けられないと言われているが、こちらから誘いたいと思う時もある。だが、その気持ちをグッと堪え、真吏の都合に合わせているのだ。 いつもなら貴滉が電話に出られない時でも、時間をおいて携帯に直接掛けなおしてくる浅香が、貴滉の勤務先に連絡してくるのは珍しい。今夜も食事の誘いか――はたまた、真吏に何か起きたのかと、少しばかり気持ちが焦りだした時、隣の克臣が怪訝そうな顔でこちらを見つめていることに気付いた。  それに気づかないフリを決め込み、小さく手を振りながらデスクに戻って行く上田に笑みを返してから、貴滉はパソコンのモニターに視線を移した。 「――なぁ、貴滉」 「ん?」 「浅香って……誰?」  その問いかけに、貴滉はモニターから目を逸らすことなくボソリと答えた。 「ちょっとした知り合い……」 「わざわざ会社に電話してくるとか……。本当に知り合いなのか? お前、何かトラブルに巻き込まれているとかないよな?」  椅子を軋ませて身を乗り出した克臣を制するように、貴滉は気のない素振りで顔を向けると抑揚なく言った。 「そんなんじゃないから。――克臣、最近のお前……おかしいよ。この前の事といい……俺を心配してくれるのは分かるけど、ちょっと踏み込み過ぎじゃないのか?」 「俺はお前のことが心配なんだよ。世情に疎いし、悪い奴に騙される可能性だってあるだろ? 今どきの詐欺師は巧妙な手を使ってくる」 「あのさ。俺はそこまで鈍くないから……。騙されてるって前提で話すのやめてくれよ。子供じゃあるまいし」  呆れたように大仰なため息をついて見せた貴滉は、再びモニターに視線を移すとキーボードを叩き始めた。  克臣が気心の知れた仲として心配してくれるのは有り難いと思っている。しかし、最近の克臣は今までの心配性がさらにエスカレートしているようでならない。言い方を変えれば、貴滉の行動を逐一知りたがる傾向にある。  いくら仲がいいとはいえ、秘密にしておきたいことだってある。それを根掘り葉掘り聞いてくることが、貴滉にとって不快であり不安で仕方がなかった。  彼は真吏を快く思っていない。SNSの噂を真に受けているだけならいいが、もし貴滉との関係を知ったら何をしでかすか分からない。それが克臣にとって『正義』であっても、貴滉にとっては恋路を阻む『厄介者』としか思えなくなる。 「――浅香、ねぇ。どっかで聞いたことあるんだよな」 「余計なこと言ってないで早く帰りなよ。俺はまだ仕事が残ってるんだから」  上着から取り出したスマートフォンで何かを検索しようとする克臣に釘をさす。気になることがあればすぐに検索出来るスマートフォンは便利だが、個人的な情報も安易に見つけられてしまうのは考えものだ。 「分かったよ……。あまり無理するなよ」 「あぁ……」  渋々というように立ち上がった克臣は、通勤用の鞄を掴むとフロアを出て行った。  すぐ隣に感じていた圧が消え、ふっと肩の力を抜いた貴滉はデスクに置いたスマートフォンに手を伸ばした。指先でタップとスクロールを繰り返し浅香のアドレスを探すと、発信ボタンを押しながら席を立った。そのまま休憩室へと向かう。  会議終了直後は出入りする人でごった返していた休憩室だが、帰宅の途につく者たちがフロアからいなくなったおかげで、そこは普段の静けさを取り戻していた。  足早に部屋に入り手近な椅子に腰かけた瞬間、耳に押し当てていたスピーカーから浅香の低い声が響いた。 「あ、稲月です……」 『お忙しいところすみません。会議中でしたか?』 「ええ。今日はいつもより長引いてしまって……。どうしたんですか? 会社に電話をくれるなんて……」  貴滉は思いついたように椅子から立ち上がると、ポケットの中の小銭を摘み自動販売機の前に立った。まだ残っている仕事のことを考えるとコーヒーがいいが、疲れているせいもあって少し甘い物も捨てがたい。赤く点灯したボタンの上で指を行き来させていると、浅香が言いづらそうに切り出した。 『――今夜のご予定は?』 「少し仕事が残っているので、それを片付けてから帰ろうと思います。真吏さんから……ですか?」 『はい……。ですが……あの、今日はお会いにならない方がいいと思います』 「え?」  ボタンの上を彷徨っていた指先がふと動きを止める。選択時間が過ぎたのか、小銭が返却口に戻る音がした。 「どうしてですか?」 『秘書である私が出過ぎた真似をするのはどうかと思いますが、今日は断って下さい』 「真吏さん、そんなに忙しいんですか?」 『いえ……そうではないのですが。私は社長からの指示でこうしてあなたに連絡しています。本来であれば社長自身があなたに直接連絡を取るべきなのですが……。稲月さん、私はあなたのことを心配しているんです。あなたは社長のことを何も知らない。純粋な気持ちで社長の我儘にお付き合いされているあなたを見ていると、心苦しいんですよ』 「――どういうこと、ですか?」  電話の向こう側で浅香が小さく息を呑むのを感じた。そして、何かを吐き出すように重々しい口調で言った。 『あなたは……Ω性であるということを自覚した方がいい。安易にα性に近づくのは危険だと忠告しておきます』 「浅香さん。それって……どういう意味ですか?」 『α性の皆が皆、完璧で優秀であるわけではない……とだけお伝えしておきます。お互いに抑制剤を飲んでいても、いつその効果を本能が上回るか分からない。こういった事故は常に起こりうるということです。社長は――薬を飲んでいません。だから尚更……』 「え……?」  貴滉は自分の耳を疑った。発情しない自身も、いつそういったことが起きてもいいように抑制剤を常備し、服用している。α性において、周囲にΩ性がいる環境にいれば尚更自衛策としてフェロモンブロック薬が不可欠となる。貴滉と接するようになった真吏もまた、当たり前のように服用しているものと思っていた。  そして未だに、貴滉が強力な抑制剤を使用し発情を抑えこんでいると思っている。発情しないΩ性であることを、まだ真吏には明かしていない。 『――今夜は都合が悪いと伝えておきます。もし……社長からあなたに直接連絡が来ても断ってください。お願いします』  真吏に飼い馴らされた忠実な秘書。そんなイメージが強かった浅香が、真吏に会わせないようにすることなどあるのだろうか。主の命令は絶対――それを覆すような彼の言葉に、貴滉は違和感を覚えた。 『あなたをこれ以上傷つけたくない……それだけです』 「浅香さん……? 真吏さんに何かあったんですか?」 『また後日、ご連絡差し上げます。では……』 「浅香さん! あさ……っ」  貴滉の問いに答えることなく、短くそう言って一方的に電話を切った浅香。貴滉は自動販売機の前でしばらく動くことが出来なかった。 (ブロック薬を飲んでいないって……)  真吏の会社内にもΩ性のスタッフはいるはずだ。万が一の事故を回避するためにもα性とβ性はブロック薬を飲むことを社内で義務付けている企業が多い。大手であれば尚更のことだが、代表者なら率先して飲むのが当たり前なのになぜ真吏は飲んでいないのだろう。  スマートフォンを持つ手を力なく下した貴滉は、真吏との食事の後で交わすキスのことを思い出していた。  α性とΩ性。互いに強力な抑制剤を服用していたとしても、直接的な接触は本能を呼び覚ますこともある。それがたった一度ではない。初めて食事に誘われたあの日から何度も交わされている。  真吏と舌を絡ませ合うだけで体の芯が熱くなり、はしたなくもそれ以上のことを望むかのように腰の奥が疼く。  それなのに、貴滉に発情の兆しはない。やはり、真吏とは都市伝説でまことしやかに囁かれている『運命の番』ではないのかと落胆し、それ以前にα性を誘うフェロモンも出せない自分の不甲斐なさに苛立ちさえ覚えた。  出来ることならば……事故でもいい。真吏とそういう関係になりたいと思っている自分がいる。  だが、冷静になって考えてみれば真吏の方にも何か問題があるのでは……と思う。  彼に近づくとα特有のフェロモンを感じる。香水とはまるで違う、オスが放つ独特の香り。彼が間違いなくα性であることを意味しているが、Ω性と接触して何も感じないわけがない。接触によって互いの本能が求めあう場合もあるのだ。 「あぁ……。実は俺も訳アリ……なんだ」  初めて食事をした夜、何気なく真吏が口にした言葉を思い出す。あの時は何事もなかったかのように流されてしまったが、今に思えばその場の雰囲気で言ったというには少々引っ掛かりのある言葉だった。 「真吏さんが……まさか」  貴滉は、彼が自分と同じだとは思いたくなかった。出逢いは最悪だったが、今は彼ほど理想的な男性はいないと思うほど惹かれている。  仕事の話をする時の楽しそうな表情や、貴滉の話で端正な顔にくしゃりと皺を寄せて笑う姿は、おそらく社内では見せないだろう彼の一面を垣間見ているような気がして優越感に浸る。  真っ直ぐ向けられる淡褐色の瞳は、貴滉の心の中を見透かすようで時々怖くなる。でも、いっそ見抜かれた方が楽になるかもしれないという気持ちもあった。  一点を見つめたまま動けなくなった貴滉の背後で賑やかな声とドアが開く音が聞こえ、ハッと我に返る。 「あ、稲月……。コーヒー買うの? じゃあ、俺はその次っ」 「人の金で勝手に買うな! おい、財布返せよ」 「パチンコで勝ったあぶく銭は使ってやらないとな。稲月、早く決めろよ。俺は何にしようかな~。あ、お前の分も買ってやるよ。何がいい?」  営業部の先輩社員二人が休憩室に雪崩れ込んでくるなり、自動販売機の前で立ち尽くす貴滉に絡んだ。 「おい! それ、俺の財布だって!」 「ケチケチすんなって。ケチな男は嫌われるぞっ」  ニヤリと笑いながら貴滉に「何がいい?」と問う先輩にしばし呆気にとられていたが、すぐに柔らかな笑みを顔に貼りつけると、赤く点灯しているアメリカンコーヒーのボタンを押した。 「ご馳走様です」 「あ、おい! 稲月……お前までっ」  カップにコーヒーが注がれると、休憩室に香ばしい香りが広がる。取り出し口からカップを取り出すと、貴滉は財布を持ち去られた先輩社員に笑顔で言った。 「俺、まだ仕事あるので……。ありがとうございます」 「え? 残業かよ……。お前、いろいろ頑張り過ぎじゃないのか?」  先程までムキになって声を荒らげていた彼が、ふっと真面目な顔で貴滉を見つめた。Ω性で色が白く小柄な貴滉は何かにつけて心配される。それが嫌で、多少無理をしてきたことは認めざるを得ない。しかし、彼らが思うほど疲弊しているわけではないし、動けなくなることもない。発情期がない分、体力的にも十分余裕がある。 「大丈夫ですよ。キリのいいところで帰りますから」 「あぁ……あれか? 課長の物件資料……」 「えぇ。締め切り間際でバタバタしたくないし、出来るうちに進めておこうかと思って」 「そ、そうだな……。ま、コーヒー飲んで頑張れよ。足りなきゃ、他に何か買ってやろうか?」 「ありがとうございます。お気持ちだけ頂いておきますっ」  コーヒーのカップを大事そうに両手で包み込むように持ちながら頭を下げた貴滉に、自動販売機の前にいたもう一人の先輩社員が言った。 「稲月、無理すんなよっ! それは俺からの奢りだ」 「何言ってんだよっ! それ、俺の財布だろーがっ」  二人の漫才のような会話に心なしか救われたような気がした。営業部に所属する社員は皆、タテの繋がりよりもヨコの繋がりを大事にする。だから、先輩後輩関係なく気さくに声をかけてくるし、業務上の討論は本気モードで自分の意見をぶつけ合い遠慮容赦なく繰り広げられる。  貴滉にとってこれほど居心地のいい職場はなかった。Ω性であることで虐げられる者がいる一方で、理解ある企業もあるということを知ってもらいたかった。  デスクに戻り、コーヒーを一口だけ啜る。苦みと渋みが空腹にダイレクトに沁み渡り、ギュッと目を閉じた。  浅香の言葉がどうも気にかかる。ゆっくりと目を開いてパソコンのモニターを見つめるも、浅香の感情の読めない眼鏡越しの黒い瞳が浮かぶ。ストイックなように見えて、彼が纏う独特の柔らかさが憎めない。  今夜の誘いを断れとは言ったものの、真吏との関係を終わらせるかのように「二度と会わないでくれ」と言うでもなく、強引に遠ざけようとしているわけでもない。  浅香の真意が分からない今、もし真吏から直接電話が掛ってきたら……と思うと気が気ではない。  貴滉は自身の両頬を掌でパンッと軽く叩いて喝を入れると、モヤモヤする気持ちを強制的に仕事モードに切り替えた。  *****  どれくらい経っただろう。仕事に集中し時間も気にしていなかった貴滉は、デスクの上に置かれたスマートフォンが眩い光を放ちながら振動していることに気付いた。  液晶画面に表示されている時間は午後十時になろうとしている。そして――『真吏さん』の文字。  今まで一度しか表示されたことのない番号に、貴滉は驚きを隠せなかった。  浅香経由でしか連絡を取らなかった真吏。その彼が直接電話をしてくるほど貴滉に会いたい理由……。  手を伸ばしかけて一瞬戸惑う。浅香の言葉が脳裏をよぎった。  なぜ浅香は、断れと言ったのだろう。傷付けられたことなど一度もないのに……。  貴滉が思い悩んでいる間も着信を告げ続けるスマートフォン。それを指先で引寄せて、貴滉は意を決したように通話ボタンをタップした。  昔話に出てくる「絶対に見てはいけませんよ」という約束を破った気分だった。ストーリーの中で、その言葉は『パンドラの箱』を意味し、驚くべき真実を主人公に突きつける。  この電話に出ることで貴滉が傷付き、真吏との関係が危ういものになる可能性がある――浅香はそう言いたかったのかもしれない。 「――もしもし」  電話の向こう側にいる真吏の様子を探るように、貴滉は遠慮がちに声をひそめた。 『貴滉?』  耳に押し当てたスピーカーから聞こえたのは、いつもより少し低めの貴滉の声と、大音量で流れるアップテンポの曲。ライブハウス、またはクラブのような場所にいることが窺える。  普段は落ち着いた雰囲気の店を選ぶ真吏。意外だなというのが貴滉の率直な感想だった。 『――まだ仕事? 今夜は会えないのか?』 「もう少しかかりそうです。真吏さんはどこにいるんですか?」  貴滉の問いかけに、真吏の声は返って来なかった。ただ、重低音がやたらと耳につく音がスピーカーから断続的に聞こえるだけだ。 「真吏さん?」  もう一度問いかけると、深いため息のあとで掠れた低い声が返ってきた。 『会いたい……。貴滉、お前に……会いたい』  彼にしてはやけに重々しい声音に、貴滉は何かを感じ取った。自信に満ち溢れ、陽気で笑顔が絶えない彼のこんな声を聞くのは初めてだったからだ。 「真吏さん? どうかしたんですか?」  貴滉は作りかけの資料のデータを素早く保存すると、スマートフォンを肩と首の間に挟んだまま帰り支度を始めた。 「もしもし、真吏さん?」 『お前まで……俺を見捨てるのか? 貴滉……俺、このままじゃ……』 「え? ちょっと、真吏さん! 何を言って……っ」 『R町……【BORDER】って店にいる。頼む……来て、くれ』  だんだんと弱くなっていく彼の声に急かされるように、貴滉はパソコンの電源を落とすと通勤用の鞄を掴んで席を立った。 「分かりました。すぐに行きますっ」  たとえ嘘でもいい。それでも自身を必要としてくれるのならば……。  一方的に通話を終わらせたスマートフォンを掴むと、誰もいないフロアの照明を落とした。  廊下を走り、なかなか来ないエレベーターに焦れ、扉が開くと同時に割り込むように身を滑らせた。勢いよく一階へのボタンを押し、その間に店の場所を検索する。 「R町か……。タクシーで行けば十五分くらいだな」  腕時計を見ながら、小気味よい音と同時に開いたエレベーターから飛び出した貴滉は、自動認証機の間をすり抜けて外に出た。  ビジネス街を走るタクシーの数は多く、この時間ならばすぐに拾える。貴滉は道路脇に立ち、丁度走ってきた空車のタクシーと止めると急いで乗り込んだ。 「すみません。R町まで! ちょっと急いでもらえますかっ」  軽く息を弾ませた貴滉に運転手は「夜遅くまで大変だね」と苦笑いを浮かべて車を発進させた。  嫌な予感がする。いつになく思いつめた真吏の声がそう物語っていた。  経営者にかかる重圧やストレスは想像出来ないほど大きく、それを上手く自分の中で解消していかなければいつか暴走を引き起こす。飲酒やドラ|ッグ、最悪の場合は自身を悲観しての自|死に至るケースもある。  何においても有能と言われているα性でも、当然のことではあるが体や顔かたちが異なるように、個体によって精神構造も違う。重圧に耐えられる者、わずかなストレスでも体調を崩す者、そして自身を貶めるような行為に走る者……それぞれだ。  真吏も然り、このどれに当てはまるかは分からなかったが、先程の電話では普段の彼とはまるで異なっていた。  信号で足止めされるたびに、貴滉の不安が大きくなっていく。  何もなければそれに越したことはない。しかし……何もないとは言い切れない。  膝の上で組んだ両手に自然と力が入る。タクシーの料金メーターがカチカチとカウントされる音を聞きながら、貴滉は薄い唇をキュッと強く噛みしめていた。
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