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【2】
日曜日の昼下がり。
休日にスーツを着ることなど滅多にない貴滉だったが、今日は会社に出勤するのとはまるで違う。どこか浮き足立つ感覚に気付き、深呼吸をして自分を落ち着かせる。
いくつもの路線が乗り入れる主要駅前にあるTホテルのロビーには数多くの客が出入りしていた。スーツケースを持った観光客らしき者や、就職相談会で訪れた若いスーツの群れ。ホテルが企画した催事に向かうためかエレベーターホールの前では人がごった返していた。
高級よりも少しランクが低い設定ではあるが、誰もが一度は聞いたことのある有名なホテルだ。
貴滉はロビーに掲げられた催事情報のパネルを見上げ、少し息苦しさを感じてネクタイのノットに指を入れた。
「会場は十二階か……」
上着の内ポケットから『招待状』と書かれた二つ折りのカードを取り出し何度も見比べると、人が減り始めたエレベーターホールへと足を向けた。
その時、チェックインカウンターの方から悲鳴にも似た声が上がった。
「Ω性の発情だっ!」
カウンターの前で荒い息を繰り返しながら蹲る青年の姿に、周囲にいた人たちがざわつき、即座にその場から遠のいた。口元にハンカチを当てる者もいれば、Ω性が発するフェロモンをまともに吸い込んだのか目を血走らせて自我を失っている者もいる。
特殊なマスクを着けたホテルスタッフが慌てて青年を支えながら立たせると、慣れた動作でその場をあとにした。公共施設やホテルなど不特定多数の人間が利用する建物には、Ω性の急な発情期に備えてラッドルームの設置が義務付けられている。予定外の発情を引き起こしたΩ性を一時的に隔離し、周囲にいるα性やβ性と接触させないための部屋だ。そこで強い抑制剤を注射し、落ち着いたところで自宅に帰すということになっているが、まれに抑制剤に耐性がつき注射でも抑えきれないΩ性がいる。その場合は国の保健機関に連絡が行き、専用の輸送車で本人の自宅ではなく収容施設に移送され、発情期間である一週間をそこで過ごすことになる。
貴滉がそれを初めて聞いたのは小学生の時 だった。学校の保健体育の授業内で教えられるのだが、まるで犯罪者のような扱いだと子供心に思った。
同じ人間なのに、どうしてΩ性ばかりがこんなに迫害されるのか……。同時に、自分自身もいつかそうなるのだろうという恐怖にも怯えた。
「皆様にはご迷惑をおかけしております。フェロモンを吸われた方、ご気分がすぐれないお客様がいらっしゃいましたらサービスカウンタースタッフまでお伝えください。すぐに対応いたします」
ロビーにアナウンスが流れると同時にサービスカウンターに向かう人が数人、貴滉の前を横切った。
どこにいてもこんなことは日常茶飯事で、誰もさほど驚くことはない。しかし、その場にいるΩ性はどんな気持ちでこの光景を見ているのだろう。
明日は我が身……。そう思いながら、抑制剤をより強いものに変え発情の恐怖と闘っている。
貴滉はそんな現実から逃げるようにエレベーターに乗り込むと、目的地である十二階を目指した。
大小、催事の規模に合わせたレセプションルームが用意されたフロア。大規模なものになると一つ上の十三階にあるレセプションホールが使用されるようだ。
エレベーターホールから続くロビーには各ルームへの案内が掲示されている。貴滉は、自身が目指す場所を見つけると足早に歩き出した。
両開きの木製扉の前に置かれた催事案内。その横に設けられた受付で『招待状』を提示すると、黒いスーツ姿の女性スタッフが笑顔で対応してくれた。
今日の恋活イベントは訳アリな性対象者をターゲットにしている。訳アリと言えども、同じ空間に三つの性が入り混じれば何かと問題が起きりやすい。スタッフをはじめ運営側にも緊張感が漂っている。
身分証明書の確認を終え、いくつかの書類を受け取った貴滉は、最後に錠剤を二粒渡された。
「あの……これは?」
「本日参加する皆様にお配りしています。皆様を信用していないわけではありませんが、こればかりは私どもにも予想出来ませんので抑制剤の服用をお願いしています」
「ああ……そういうことか」
「即効性で副作用などはありません。もしもご気分が悪くなられたり、何か変調がございましたら医師が待機しておりますので、スタッフにお気軽にお声掛け下さい」
こういう場所で水なしで飲める錠剤を用意するあたり、数多くのイベントを企画・運営してきたThe Oneがその度に学び、改善してきたことなのだろう。
「ありがとうございます」
錠剤を口に放り込み奥歯でカリリと噛み砕くと、独特の苦みが口内に広がり顔を顰めた。
扉を開け、あらかじめ指定された席に向かった貴滉は、用意されたソファに腰かけるとプロフィールカードを記入した。
基本的に本名は明かさない。ネックホルダーに掛けられた名札も『タカヒロ』という名前と年齢が記載されているだけだ。簡単なプロフィールを書き終えて周囲を見回していると、男女問わず次々と受付を済ませた人たちが入ってくる。今日のイベントは二十人限定となっており、比較的小規模なものだ。
貴滉が参加可能なイベントはいくつかあったが初めての参加ということもあり、あえて少人数なものを選んだ。
この中に恋人になる人がいるかもしれない……そう思いながら席に着く人たちの顔を見つめる。
見るからにα性だと思しき長身でイケメンの男性や、華奢で伏せ目がちな表情を浮かべる女性、着崩したスーツで落ち着きなくあたりを見回しながら歩く青年もいる。
ひとえに『訳アリ』と言っても様々だ。貴滉は自身のことを隠してきたつもりはないが、あえて口に出して公表するものでもないと黙ってきた。
Ω性であることを決して恥じているわけではない。だが、幼い頃に浴びせられた父親からの辛辣な言葉。それを思い出すたびに、自分は『負の要因』であると思わざるを得なくなる。
忘れたくても忘れられない――。
おそらくだが、この会場に来ている者の中にも貴滉と似たような経験をしてきた人がいるだろう。
数名の欠席者以外の席が埋まった会場を見渡し、貴滉は高まる緊張に深呼吸を繰り返した。司会を務めるThe Oneのスタッフが開会を宣言し軽快なトークでその場を和ませると、それまで緊張で強張っていた参加者の口元に笑みが浮かんだ。
簡単な自己紹介から始まり、歓談タイムで参加者全員と会話をする。部屋の一角に用意されたフードスペースにはドリンクバーと軽食が用意され、時間内であれば自由に飲食が出来るようになっている。
参加費は一人六千円であったが、このホテルのルームチャージと設営や人件費、医師の手配などを含めると、小人数であることもあり採算を取ることは難しい。それでも手を抜くことなく裏方に徹するスタッフの熱量を間近で感じた貴滉は、今までの営業マンとしての在り方を考えさせられる一幕もあった。
もとより奥手な貴滉だったが、フードスペースでα性の男性三人に声をかけられた以外は積極的に声をかけるように動いた。
歓談タイムは他のイベントに比べ時間に余裕を見込んであった。時間に追われ相手を知る間もなく終わってしまうということが、参加者から『不満』だとアンケートで出ていたようだ。そういう裏事情を知っている参加者は、もう何度もThe Oneが企画するイベントに参加しているようだったが、お目当ての相手は未だ見つかっていないという。
でも、他のイベント会社に比べて格段に質がいいという理由だけで会員登録し、参加しているのだという。
ここに集まってきているのは皆、訳アリ性対象者だ。だから、あえてそのことについては触れない。
会話を交わしても、もう二度と会わないかもしれない相手に自分の秘密を明かすことはしない。それが個人情報を守る上でイベント側から指定されたルールだ。
歓談タイム終了後の自由時間は、付き合ってみたいと思う相手を見極める大切な時間だった。貴滉と歳も近く、サラリーマンだというΩ性の青年と話が合った。彼の方もまんざらでもない様子だったし印象も悪くなかった。
配られたカードに気になった相手の名前を記入する。ボールペンを持ったまま悩んでいた貴滉の耳に激しくドアが開く音が聞こえ、何事かと顔を上げて入口の方を見た。
「社長! ちょっとお待ちくださいっ!」
声をあげて呼び止める女性スタッフの制止を振り切るように会場に入ってきたのは、光沢のある細身のスーツにカラーシャツを合わせた長身の男性だった。
目を瞠るような金色の髪は肩につくくらい全体的に長く、ワックスでラフに仕上げている。耳朶にはいくつものピアス。長い指にはボリュームのあるシルバーリングが光っていた。
「盛り上がってるみたいで結構!」
そう言うなりフードスペースに用意されたシャンパンのグラスを掴み、フルーツを指先で摘まんで口に放り込んだ。突然の乱入者に驚き、会場内は一時騒然となった。
彼のあとを追って駆け寄るスタッフを一瞥し、参加者を見定めるようにぐるりと部屋を一周した彼は、ボールペンを握りしめたまま固まっていた貴滉の前で足を止めた。
「ここにいる奴ら、みんな訳アリとか……信じられないな。おい、運営! サクラ仕込んであるだろ?」
グラスを手にしたまま司会者に向かって声をあげた彼に、運営スタッフは毅然とした態度で真っ向から否定した。
「当社のイベントではあり得ません」
「へぇ……。訳アリな奴らって意外といるもんだな。面白い……。出資したからには、どんな感じのイベントか見ておかないと。最近は良いことばっかり並べ立てて、金だけ持ち逃げする奴らもいるしなっ」
「なっ……」
言葉を失ったスタッフに意味深な笑みを投げかけた彼は、シャンパンを一気に煽るとグラスを床に投げた。
傲岸不遜――まさしく彼のことを示す言葉だろう。The Oneのスポンサーと思しき発言ではあるが、スタッフを振り切り無断で会場に入り、和やかに進行していたイベントをぶち壊すような行動は傍若無人のなにものでもない。
彼が身じろぐたびにふわりと香るムスクの香りがやけに鼻につく。貴滉はその香りから逃げるように、露骨に顔を背けたその時――。
視界の端で揺れた大きな影。貴滉はそれに見下ろされていた。
「――誰か、気になる奴とかいた?」
不意に声をかけられ、それが自分に向けられているものだということに気付くまでに少しの時間がかかった。
恐る恐る視線を上げ声の主を見上げると、すぐそばに金色の髪があった。
「え……」
長身を屈めるようにして貴滉を覗き込んでいた青年。近くで見ると日本人離れした端正な顔立ちをしていた。身なりをきちんとすればモデルと見紛うほど美しい横顔と、くっきりとした二重を飾る長い睫毛に縁取られた淡褐色の瞳が印象的だ。
「なぁ……どうなんだ?」
「あ……あなたには関係ないでしょ」
咄嗟に口を吐いて出た言葉に、綺麗に整えられた眉を寄せた彼は、薄い唇を片方だけ上げて笑った。
「可愛い顔して随分と勝ち気だな……訳アリのクセに。見たところΩ性のようだが、性的不能で童貞処女とかだったら笑えるな。――気に入った。お前とつき合いたい」
「は?」
彼はそう言うなり貴滉の耳元に顔を寄せ、耳朶に息を吹きかけながら続けた。
「俺のモノになれよ。不能でも可愛がってやる」
ゾワリとうなじのあたりを這った嫌悪感に顔を顰め、貴滉は彼の肩に両手を掛けると力任せに押し退けた。ふらついて後ろに下がった彼に向かい、ソファから勢いよく立ち上がりながら声をあげた。
「勝手なこと言わないでくださいっ。俺がΩ性だからって……そういう目で見るのは不謹慎じゃないですか」
彼は長い指先で気怠げに髪をかきあげながら、すっと目を細めて笑った。
「だから――なに? αとかΩとか拘ってるの、むしろお前の方じゃないのか? αである俺のこと、そういう目で見てるってことだろ?」
「そんなことは……」
「違わないだろ? これだからΩは嫌いなんだよ」
吐き捨てるように彼の口から発せられた愚弄の言葉。幼い頃から幾度となく言われ続けてきた。まるで汚いものでも見るような冷酷な眼差しに耐え兼ね、貴滉が視線を逸らした時だった。彼は片手をすっと斜め上にあげ、大きく息を吸い込んだ。
「運営っ! 彼をリザーブ! 他の連中も指名するんじゃないぞ」
「ちょっと! 何を勝手に……っ」
部屋中に響く声で叫んだ彼を制するべく咄嗟に腕を掴んだ貴滉だったが、その手は呆気なく掴み返され、思った以上に力強い力で逆に抱き込まれてしまった。
そして……。
「――ん、っふ! ふ……ぁ……うぅ」
薄く冷たい彼の唇が重なり、厚い舌が貴滉の唇を割って口内へと侵入してきた。反射的に逃げる貴滉の舌を追うように、繋がりを深めて差し入れた彼の舌先に触れた瞬間、シャンパンの甘い香りと共にピリリと電流のようなものが走った。
静電気に触れた時の痛みのあとで、じんわりと痺れるような快感が口内に広がっていく。自然と上がる息を逃がそうと唇をわずかにずらすと、甘い声と同時に吐息が漏れた。
(こんなキス……初めてだ)
薄らと目を開き、すぐそばにある彼の顔を盗み見る。長い睫毛を微かに震わせながら、野獣のように舌を絡ませる彼の息遣いを感じ、口内から全身に甘ったるい疼きが広がるのが分かった。
例えるなら――毒。一瞬で死に至らしめるものではなく、ジワリジワリと体中に広がりながら理性を突き崩していく強力な媚薬。一度でも味わったら、二度と抗うことが出来なくなるほどの依存性を秘めたもの。
今の貴滉には、彼を突き飛ばす力は残っていなかった。
クチュリと小さな音を立てて離れていく彼の唇に残った銀糸がゆっくりと途切れていく。それがとても残念で仕方がないという思いに駆られ、濡れた唇から目が離せなくなっていた。
「――まだ欲しいって顔してる。もしかして、発情したか?」
掠れた低い声で囁かれ、貴滉はビクッと肩を震わせた。そして、自分を戒めるように首を横に振ると、濡れた唇を乱暴に手で拭った。
こんなに多くの人たちの前でキスすること自体、貴滉の日常では考えられないことだった。
彼への怒りがないと言ったら嘘になる。でも、今はそれを凌駕する驚きと羞恥に思考が追い付かない。それでも貴滉は自身がここに来た理由を思い出し、己を奮い立たせるようにぐっと拳を握りながら言った。
「俺は……本気で恋を探しにここに来たんです。邪魔……しないでもらえますか」
動揺していることを悟られまいと唸るように声を発した貴滉だったが、精一杯の強がりも彼の前ではまったくの無力だった。
「俺はいつでも本気。そうじゃなきゃ、生きていられない……」
「え……?」
「あとで連絡先教えるから。お前とゆっくり食事がしたい……」
「なにを……っ」
「だって俺たち、付き合うんだろ?」
淡褐色の瞳が何かを試すかのようにすっと細められる。有無を言わせない目力に圧倒され、貴滉は息を呑んだまま動けなくなっていた。
先程まで煩わしいと思っていたムスクの香りが、たった一度のキスで心地よいものへと変わっていく。こんな自分勝手な男が纏う香水に感化される自分の単純さに腹が立った。
「――運営! これからもどんどん出資するから、楽しい企画いっぱいやってくれ!」
そう言いながら歩き出した彼の背中を見つめていた貴滉はハッと目を見開いた。彼が貴滉に背中を向けた瞬間、綺麗な横顔がわずかに曇ったような気がした。眉をきつく寄せ、なぜか苦しそうな表情を浮かべた彼に気付いたのは、おそらくすぐそばにいた貴滉だけだろう。
人の気持ちを逆なでする言動、自尊心の塊のような態度。そのあとで、なぜ彼が苦しげに顔を歪ませたのかが分からない。他人を蔑んで快楽を得る人種――それならば、意地の悪い笑みの一つぐらい浮かべていてもいいだろう。それなのに……。
「あのっ!」
咄嗟に声をかけるが、彼はまるで貴滉の声など聞えていないかのように足早に去って行った。伸ばしかけた手の行き場に困り拳を握って脇に下した貴滉は、嵐のあとのような脱力感に苛まれていた。
その嵐は突然のキスだけでなく、貴滉の心に気になる足跡を残していった。
入口の扉が閉まったあと、静寂が会場内を包み込んだ。司会者が慌ててマイクを握るが、何とも言えない空気を完全に払拭することは不可能だった。
イベントの最後に気になった相手を記入したカードが発表される。貴滉のカードは白紙のままだった。そして、好印象を抱いていたサラリーマンはもちろんのこと、貴滉を指名する者は誰もいなかった。
この日成立したカップルは二組。心から祝福の拍手を送った。
でも――。
彼のキスの感触がいつまでも貴滉を震えさせていた。なぜか舌先に残る痺れと体中に広がった疼きが消えない。
自身の唇に指を押し当てたまま会場を出た貴滉を待っていたのは、一目でブランド物だと分かるスーツを隙なく着こなしたシルバーフレームの眼鏡が印象的な長身の男性だった。
先程の彼とはまたタイプが違う整った顔立ちは、向き合った人間を一瞬凍てつかせるほどの迫力があった。眼鏡越しの瞳からは感情が読み取れない。しかし、貴滉は感じていた。彼が纏う空気はどこか優しく、紳士的だ。
「――稲月貴滉さんですね?」
「え? あ……はい」
不意にフルネームで問いかけられ驚きを隠せない貴滉に、彼はふっと表情を緩めて申し訳なさそうに言った。
「驚かれるのはもっともです。お名前の方はイベント主催者に伺いました。こういうイベントは個人情報厳守が原則で――あ、基本的に一般の方々には個人情報の開示はありませんのでご安心を。今回は事情が事情だけに……」
彼が貴滉の個人情報を他者から聞き出したことを『悪いことである』と認識出来るマトモな人間であることは、困ったような表情と主催者側をフォローする口ぶりから十分すぎるほど理解出来た。
マッチングイベントは気軽に参加出来るものとして普及してるが、じつにセンシティブで、あらゆる事情を抱えた者たちが集い、出会いを求める場だ。特に今回のような訳アリ性対象者の場合、情報が漏れることによってその人にあらゆる危害が及ぶ可能性が高い。
年に数件、こういったイベントを利用した詐欺や特殊性の売買行為が摘発されている。それ故に、慎重に主催者を吟味する必要があった。貴滉がなかなかイベント参加に踏み切れなかったのも、これがネックになっていたからだ。
訝しげに見上げる貴滉に気付いたのか、彼は落ち着いた動作で自身の名刺を差し出した。
「申し遅れました。私、浅香京介と申します」
丁寧な所作で渡された名刺を受けとり、彼が株式会社クールウェブゲートの社長秘書だということを知る。このイベントを企画・運営しているThe Oneはいくつかのスポンサーの存在によって成り立っている。その一つであるクールウェブゲート社の社長秘書が、なぜこの場に居合わせているのか不思議でならなかった。
「――これを社長から預かっております」
「社長……? どうして俺に? 人違いじゃないですか?」
浅香と名乗った彼は、黒革の名刺入れから上質な黒い紙に銀色の文字で印刷された名刺を一枚取り出すと、状況が掴めずに立ち尽くす貴滉に差し出した。まるでホストをイメージさせるような名刺だと思いながら、書かれている文字をまじまじと見つめる。そして、貴滉は瞠目したまま息を呑んだ。
「代表取締役……社長? 漆原真吏……。嘘だろ……っ」
そう言えば、彼が乱入してきた際に受付のスタッフがそう叫んでいたことを思い出す。
大手IT企業であるその名前は先日、The Oneのスポンサーになったと克臣から聞いたばかりだった。
いまやあらゆる企業と提携し、その業務を拡げているクールウェブゲート社。確か一部東証に上場する大企業、総合商社漆原興産の傘下企業になっている。
同じ苗字であるところをみると、おそらく親族に間違いないだろう。純血統のα性ばかりを輩出する名家。しかし、彼を見て誰が名家の出身であると信じるだろう。
着崩したスーツ、金色の髪、企業家とは思えない言動と振る舞い。それに加え、権力を行使して貴滉の個人情報まで入手するとは……。
貴滉は名刺の裏側に白いペンで書かれた、おそらく彼のものであろう手書きの携帯番号をじっと見つめた。
「基本、ご連絡はこちらからいたします。では――」
「ちょっ! そんな一方的な……っ」
歩き出した浅香を呼び止め、彼の腕を掴んだ貴滉は自身よりも背の高い彼を見上げて声を荒らげた。
「あなた、秘書でしょ? 社長があんなことをして黙って見ていたんですか? いくら出資してるからといってイベント会場に乗り込んで来るとか……非常識ですよね? どうして止めなかったんですかっ」
眼鏡の奥の黒い瞳が、獲物を捕らえた獣のように一瞬ギラリと光った。しかし、それに怯むことなくさらに噛みつこうとした貴滉を察してか、彼は何も言うことなく一礼すると足早に去って行った。
社長が不利になることは一切口にしない。実に良く飼い馴らされた秘書だ。浅香は容姿が良く、能力に長けているところを見るとα性であることは間違いない。営業先で多くの企業と接してきた貴滉の勘だ。
大企業の社長秘書はα性であることが多い。中には番った相手をそばに置きたいという者や、稀に秀でた才能を発揮するβ性やΩ性がおり、彼らを起用する場合もある。だが、α性の社長を完璧にサポートできるのは同じα性の秘書だけだ。
そして、α性を手懐けられるのは同等――いや、それ以上の能力を持つα性だけ。
「あの男がα性……」
あんなに不作法でバ|カげたことを平気でするα性の実業家を見たことがなかった。
自己中心的で乱暴な彼に嫌悪感を抱く一方で、今までに経験したことのないキスの感触と、一瞬だけ垣間見た憂いが気になって仕方がなかった。
「漆原……真吏」
手にしたままの名刺をもう一度見つめ、貴滉はなぜか不思議な感情が心の中に芽生えていくのを感じていた。
*****
貴滉はタチの悪い冗談だと思っていた。
恋活イベントを台無しにした男は大手IT企業クールウェブゲートの社長であり、初対面である貴滉を勝手にリザーブした揚句にキスまでした。
金髪にピアス、着崩したスーツに傲岸不遜な振る舞い……。α性では考えられない所業に怒りを通り越して呆れたりもした。それなのに――。
「貴滉……どうした? 何か考えごと?」
都内でも屈指の一流ホテルの最上階にあるフレンチレストラン。耳に心地よい音楽が流れるなか、眼下に広がるビル群を眺めることが出来る窓際のテーブル席。
向かい合うように座った彼は、指を組んだまま肘をついて小首を傾げる。その姿はまるで、心ここにあらずの恋人を優しく責めるかのようだ。
柔らかく低い声音にハッと我に返った貴滉は、正面に座る彼と目を合わせることなく水の入ったグラスを手にすると、緊張で渇ききった喉に流し込んだ。コクリと小さな音を立てて飲み込むと、小さく息を吐いた。
貴滉のもとに見知らぬ携帯番号から連絡が入ったのは二日前のことだった。
取引先の担当者の番号を登録し忘れていると思い、咄嗟にその電話に出てしまったのがいけなかった。
多くの人々が行きかう駅前の交差点。耳から入る雑踏を問題視することなく貴滉の鼓膜を震わせたのは、忘れたくても忘れられないあの声だった。
「逢いたい……」
低く掠れた声。イベントでの事を思い出して怒りに身を震わせてもおかしくないはずなのに、なぜか貴滉は身を強張らせたまま動けなくなった。
一見、薬でもキメているのではないかと思うほどのハイテンション。あの時の彼からは想像が出来ないほど、切なげで憂いに満ちた声だった。
もしかしたら下心を隠すための演技か? と、ハッと我に返った貴滉だったが、やけに真摯な態度でデートに誘う彼の様子を訝りながらも、ついに会うことを了承してしまったのだ。
それは、あの時に見た彼の苦しげな表情が、心のどこかで引っ掛かっていたせいだろう。
「――一体、何のつもりですか? 俺、あなたとつき合うなんて一言も言ってませんよ」
伏せていた目を彼に向けた貴滉は、抑揚のない声音で言った。
その視線から逃げるでもなく、彼は楽しそうに口元を綻ばせている。後ろめたいことなど何もない――とでも言いたげだ。
オーダーと分かる上質な生地で誂えられたスリーピース。金色の髪はきちんとセットされ、ピアスも指輪も揃いのデザインで、控えめでありながらも全体のコーディネートに華を添えている。
誰が見てもヤリ手の青年実業家。しかも、畏怖さえ感じられるその凛とした佇まいに、他の客たちの視線を自然と集めていた。
彼――漆原真吏はシャンパングラスに長い指を絡めると、優雅な動きでそれを口元に運んだ。そして、一口だけ喉に流し込むと、細かな泡が弾けるグラス越しに貴滉を見つめて微笑んだ。
「でも、来てくれた。俺の目の前にいる貴滉は……ヴァーチャルじゃない」
「は?」
「本物の貴滉……。なぁ、一目惚れって信じるか? 俺は自分の直感を信じたい……。騙されてるって思ってるかもしれないが、俺はいたって本気」
目の前で淡褐色の瞳を妖しく細める今の彼からは、イベント会場での愚行などまったく想像出来ない。いくつかの人格を持っているのかと疑いたくなるほど、纏っている空気がまるで違う。
「本気で恋を探してたんだろ? ――で、俺に出逢った。これって運命って言うんじゃない?」
大手IT企業の社長という肩書きと完璧ともいえる容姿。そして、経営者としての畏怖と余裕を兼ね揃えた真吏が紡ぐ口説き文句に靡かない者はいないだろう。もちろん財力は言わずもがな……だ。
取引先との接待でも、こんなハイグレードホテルでの会食はあり得ない。まして、貴滉が個人的に利用するなんてことは皆無に等しい。
半年先まで予約でいっぱいだという夜景の見えるこの席を電話一本でいとも簡単にリザーブし、コースのメニューも目を瞠るほど高額だ。運ばれてくる料理は、貴滉が口にしたことのないメニューばかりで、最初は戸惑ったがあとできちんと代金を払うという条件を彼が承諾すると同時に味わう余裕も出来た。
食事に合わせたワインを選ぶ際のテイスティングも慣れた様子で、ソムリエと対等に話せるほどの知識を持ち合わせている。何より驚いたのは、滅多に姿を現すことのない支配人が直々に挨拶に来たことだ。
生まれつき秀でた能力を持ち、何の苦労もなく現在の地位を築いているα性の彼。そんな彼がΩである貴滉に興味を持ち、自ら「付き合おう」なんて軽々しく言うはずがない。
α性の家系は結婚相手にもシビアだと聞く。有能で地位ある者を輩出し続けるには、確実にα性の子を産める者を探し求める。それ故に、愛のない政略結婚がこの時代にも存在している。
貴滉はキュッと唇を噛むと、わずかに痛み始めた胸に手を当てた。地位も財力も約束された結婚ではあるが、皆が皆幸せな生活を送っているわけではない。
互いの愛情がなくてもそれなりに上手くいく場合もあるが、表には出てこないだけで崩壊していく家族も存在する。人間が新たな命を授かるというのは神のみぞ知ることであって、生まれてくる子供の性が望んだものではないこともザラだ。まして、生まれてくる子は親を選ぶことが出来ない。その結果、すべての不幸を背負うのは未来が約束されているはずのその子供なのだ。
「どうした?」
急に黙り込んだ貴滉を心配してか、真吏が真剣な眼差しで問うた。
「いえ……。何でもありません。あの……」
言いかけて貴滉は口を噤んだ。彼はあの日、訳アリ性対象者限定の恋活イベントが開催されることを知っていたのだろうか。あの日時に恋活イベントが開催されることを知っていたのは会場になったホテルと参加者、そして運営スタッフだけだ。
The Oneのホームページに掲載されるイベント一覧は主だったものしか表示されない。訳アリと書かれていても詳細はなく、運営に直接問い合わせるシステムになっており、場所はもちろんのこと開催日や時間も公表されてはいない。
登録参加者の個人情報を守るための策であり、こういったイベントではよくあることだと知った。
イベントの存在は第三者に知られることはなく、個人情報の取り扱いに配慮している運営側から参加者が訳アリであると漏れることはまずない。たとえそれがスポンサーだったとしても――だ。
なぜ、わざわざ訳アリ性対象者のイベントに乗り込んできたのか……それを知りたかった。
「――あの。漆原さんは……α性なんですよね? どうして……あのイベントに?」
貴滉は頭を巡らせて言葉を選びながら問うた。自身の質問に正直に答えるとは思わなかったが、彼を知るきっかけの一つになればと思った。
「あぁ……。実は俺も訳アリ……なんだ」
「え?」
てらいなくサラッと答えた真吏に驚いた貴滉は、瞠目したまま動きを止めた。
長い指先で頬を掻きながら苦笑いを浮かべる彼の姿のどこを見ても、欠陥らしいところは見つけられない。それどころか、彼が纏うムスクの香りがα性特有のフェロモンと相まって広がり、他のテーブルで食事をしている客たちの視線を集めていた。
もしかしたらフェロモンの過剰分泌症か……とも思ったが、そうであればこの場で発情するΩ性がいてもおかしくない。人より強くフェロモンを発する場合、それを抑える薬もかなり強力なものになる。高額になる薬の常用は経済的にかなりの負担になり、一般的な家庭では家計を圧迫するという話も聞く。
貴滉は周囲を見回してから、わずかに前屈みになって声をひそめた。
「それって……大丈夫なんですか?」
「え? もしかして心配とかしてくれてる? 嬉しいな……」
「いや……っ。その……訳アリって言ってもいろいろありますから」
なぜか嬉しそうに満面の笑みを浮かべている真吏に戸惑いながら、貴滉は慌てて視線を逸らした。もしかしたら貴滉に警戒されないようにと嘘をついているのかもしれない。彼ほどの人間であれば男女問わずモテるだろうし、恋愛経験も豊富なはずだ。そうなれば話術もそれなりに巧みになる。
「貴滉はΩ性なんだよな……。ねぇ、かなり強力な抑制剤とか飲んでる? こんなに近くにいるのにΩ性特有の匂いを感じない……」
特に隠す必要のないことであるはずなのに、なぜか心臓が大きく跳ねた。
同僚である克臣にも平気な顔で話せている事なのに、真吏を前にすると口が思うように動かない。
「――気のせいじゃないですか」
カラカラに渇いた喉が張り付き、掠れた声しか出ない。貴滉はその場を誤魔化すようにワイングラスに手を伸ばすと、芳醇な香りのする赤ワインを一気に煽った。
酒は弱い方ではない。しかし、飲みなれないワインが渇いた喉を通り過ぎた瞬間にカッと頬が熱くなる。
彼が選んだ年代物ではあるが、なぜだか味が分からない。
「発情期になると手が付けられなくなるΩ性ですよ……。誰彼かまわずフェロモンを撒き散らして……疼く体を静めてもらうためにα性を誘う……。最低ですよね……自分の快楽のために誰かを巻きこむのって」
ふわりと体が浮くような感覚を覚え、貴滉は自身が何を言ったのか正直分からなかった。
テーブルの向こう側で真剣な眼差しを向けたままの真吏を上目使いで睨むと、きっちり締められていたネクタイのノットを緩めた。
「――Ω性は嫌われる。だから……俺は自分のことが嫌いです。誰からも愛されない……愛する資格もない。でも……恋がしたいんです。本能じゃない……自分の頭で考えて、心で感じる恋が……したい」
吐き出す息が熱い。予想以上に酔いが回っていることに気付いた貴滉は俯き、膝に置いた手でスラックスの生地を掴むと肩を上下させて長く息を吐き出した。
トクトクと早鐘を打つ心臓。それを静めようと水のグラスに手を伸ばす。震えた指先が水滴で滑り、グラスが濃紺のテーブルクロスの上に倒れた。生地の上に広がる水を見つめ、おろおろと視線を彷徨わせるばかりで体が思うように動かない。
ワイン一杯でこれほど酔うことはあり得ない。嫌な予感が貴滉の脳裏を掠める。
出会い系のサイトやアプリでマッチングした相手に睡眠薬の類を服用させてレイ|プするという事件はあとを絶たない。真吏も、誰もが認める経営者という仮面を被りながら、その素顔はΩ性の体を弄ぶ性悪男なのかもしれない。
(あぁ……。俺、騙されたのかも)
何度も忠告してくれた克臣にどんな顔をすればいいか分からない。きっと呆れられ、厳しい言葉で怒られるに違いない。
「あ……すみま、せんっ」
小さな声でそう謝るのが精一杯だった。このまま、部屋に連れ込まれて犯される覚悟を決めた時だった。
「ウェイター! 大至急、おしぼり持ってきて! あと、チェックを頼むっ」
スーツの胸ポケットから取り出した長財布からブラックカードを取り出した真吏は、駆け付けたウェイターにそれを渡すと、受け取ったおしぼりを手に席を立った。そして、貴滉の足元に跪くと、手際よくテーブルクロスから流れ落ちた水で濡れたスラックスを拭いた。
「大丈夫か? 他に濡れたところは?」
「だいじょ……ぶ、です。すみません……俺、酔ってる」
「すまない。俺のチョイスが悪かったな。もう少し軽めのワインにするべきだった……」
「ちが……っ。違います。そんな……こと、ない。俺が……っ」
「家まで送る。構わないか?」
すっと立ち上がった真吏は、ぼんやりとしている貴滉を抱き寄せて柔らかな栗色の髪に自身の頬を埋めた。ふわりと香るムスクが貴滉の鼻腔を擽る。
細身ではあるが薄っすらと筋肉がついた体躯はスーツ越しでも分かった。貴滉は、そこに顔を押し当てたまま小さく首を横に振って目を閉じた。
「漆原さま、お連れ様は大丈夫ですか?」
「あぁ……。すぐに車を回すように浅香に連絡してくれ。一階のロビーまで俺が運ぶ」
「分かりました」
深々と頭を下げて去っていくウェイターの姿が見えなくなった時、ぼやけた視界の端で彼の金色の髪が揺れた。
スワロフスキーのシャンデリアと、テーブルに置かれたキャンドルの光にキラキラと透き通る髪。
その美しさに見惚れていた時、貴滉の唇に柔らかいものが触れた。乾いた唇がほのかにシャンパンの香りを纏う。あのイベントでのキスとはまるで違う、優しく触れるだけのキス……。
「――貴滉」
触れ合わせた唇が彼の声に振動する。それが心地よくて、貴滉は知らずに舌先を伸ばしていた。しかし、真吏はそれに応えることはなかった。チュッと啄むように何度か触れ合わせて離れていく唇が、貴滉の中に強烈な虚無感を生んでいく。
「俺……帰ります。大丈夫ですからっ」
力が入らない手で真吏の胸を押し退けるようにして立ち上がった貴滉は、テーブルに手をつきながらふらつく足を一歩、また一歩と進めた。
毛足の長い絨毯が靴底に絡み何度も転びそうになったが、早くこの場から離れたかった。
「貴滉っ」
倒れかけた貴滉を支えようと伸びた真吏の手を払いのけると、俯いたまま掠れた声で言った。
「ごめんなさい……。俺……こういうの苦手で」
こめかみの血管がドクドクと脈打ち、頭が割れるように痛い。取引先との接待で飲むアルコールの量に比べたらはるかに少ないはずなのに、体内を巡る速度が速いのは日頃の疲れが溜まっていたせいか。それとも真吏を前にして貴滉自身が気づかないうちに極度のストレスを感じていたせいか――。
視界が揺れ、足元がフワフワして真っ直ぐ歩けない。グラリと大きく体が傾いた瞬間、真吏の腕が貴滉の体を抱きとめていた。
「いや……だ。離し……てっ」
「こんな状態で、一人で帰れるわけがないだろっ。なぜ、俺に頼ろうとしない?」
「――漆原さんは、俺とは違う……世界の人、だから」
「は? 何を言ってる?」
「俺は……誰からも必要とされてな……い、から。あなたの……嘘は、俺を……苦しめるだけ」
「嘘――って」
「あなたが訳アリな……はず、ない」
貴滉は真吏の腕から逃れようともがくが、背中に回された彼の腕にはさらに力が込められていった。そして、
貴滉の首筋に顔を寄せた真吏は何かに気付いたようにふと動きを止めた。Ω性である貴滉の首には闇雲にうなじを噛まれ番にされることを防ぐためのネックガードがない。年頃のΩ性であれば誰もが必ず装着している物がないことに驚いたのか、わずかに目を瞠った。
「――俺を噛んでも番にはなれない」
真吏が小さく息を呑んだことに気づいた。貴滉は唸るような低い声でそう言うと、真吏のジャケットを掴んだ。
「お前……」
「出来損ない――そう言われてる、から」
ボソリと、まるで一人ごちるように呟いた貴滉の耳元で真吏が小さく息を吐いた。
狙った獲物が不発に終わったという落胆の溜息か、それとも――。
真吏のジャケットからふわりと漂うムスクの香りが、ほんの少しだけ頭痛を和らげる。酔っている時にこんなキツイ香りを嗅いだら、吐き気を催してもおかしくないはずなのに……。
彼の長い指が貴滉の栗色の髪を梳いた。そして、耳朶に優しく歯を立てた真吏はなぜか苦しげに言った。
「――俺も」
腹の底に溜まったものを吐き出すような声音。貴滉の鼓膜を震わせ、途切れかけた意識が一瞬だけ鮮明になる。
(また、嘘……?)
出来損ないと聞いて同情しない者はいない。
貴滉はふっと口元を皮肉気に歪めた。その瞬間、体がふわりと持ち上げられた。咄嗟に掴んでいた彼のジャケットをさらに引寄せる。
真吏は意識朦朧とした貴滉の体を何の苦も無く軽々と抱き上げていた。
(このまま抱かれてもいい……かな)
抗うことが無駄だと思うくらい、貴滉は真吏にすべてを委ねていた。
真吏の言葉がたとえ嘘でもいい――。今だけは誰かの温もりを感じていたい。
同時に自分が酷く惨めに感じた。もしも、本当に発情しないΩ性だと知ったら彼はどんな顔をするだろう。
今夜のことは貴滉が酔った末に見た夢だったと、冷たく突き放される日が来るのだろうか。
幻覚でも一夜の夢でもいい。彼の腕に抱かれ、体温を感じている今だけは醒めないで欲しい。
「漆原……さん」
貴滉の唇がその名を告げ、薄っすらと微笑む。
その顔を見つめた真吏がすっと目を逸らしながらエレベーターに乗り込んだことは、泥酔した貴滉は知る由もなかった。
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