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とんぼが淋しい机にとまりに来てくれた。珍しいこともあるもんだ。僕は独りで、そのとんぼを、ただぼんやりと眺めている。ふと夕風が窓から吹き込んできたので、試しにとんぼにも聞こえるように「もうこんな時間か」と呟いてみた。
「なあ」
「……?」
「なあ、すこし話をしようか」
そのとんぼは、机にとまったままの格好で、ゆっくりとお尻を上下に動かしながら、僕にそう語りかけてきた。
「とんぼに話し掛けられたのは初めてだ」
「俺も人間に話し掛けるのは初めてだ」
「そうなんだ」
「奇遇だな」
なんだろう、疲れているのだろうか。そういえばここ最近、ずっとまともに寝ていない気がする。何日も前からこの部室で独り、うーんうーんと頭を抱え続けている。時間だけが無駄に過ぎていっている。
「なにを悩んでいる」
「悩んでないさ」
「言ってみろ。少しは楽になる」
なにが哀しくて、とんぼごときに悩み相談をしなくてはならないのだ。僕は小さくため息をつき、窓の外を見つめる。赤橙色の空が誇らしげに眩しく輝いている。
「人が感動するような作品を描きたいんだ」
「ほう、それは大したもんだ」
「でも、人の気持ちが分からない」
「当たり前だろう」
「自分勝手な話しか思いつかないんだ」
とんぼは、頭をおかしなくらい変な方向に曲げ、何度もキョロキョロと動かしている。なんだか、とぼけたような素振り。このとんぼ、僕の話を本当に聴いているのだろうか。
「自分勝手の何がいけない」
「誰もそんなもの観たくない」
「そうだろうか」
「そうだよ」
「お前の描く世界は、お前にしか見えない世界だと思うがな」
「……?」
「お前にだけ見える世界を描けば、人はそれなりに喜ぶと思うがな」
また夕風が窓から吹き込んだ。とんぼの透明な羽が風に吹かれて小さく揺れる。涼しくて、心地よさそうだ。
「俺の眼は、複眼と言ってな。1万以上の小さな目の集まりなんだ。いまだって色んな角度からお前さんを見つめている。俺はこの眼で、色んなやつを見てきた。幸せなやつ、悲しみのどん底みたいなやつ、ふざけたやつ、真面目なやつ……色んなやつを見てきた」
「そいつらは全員、まったく違う考え方をしていて、いまもまったく違う人生を生きている。まさに1万通りの生き方だ。お前は人の感動するような作品を描きたいと言うが、人とは誰だ。誰を感動させたい」
「……僕は」
「人間がこの世の中に何匹くらい生息しているのか……そんなことは知らないが、恐らく全人類を感動の渦に巻き込むことなんて不可能だろう。だったら、さっさと諦めろ。不特定多数の人を感動させたいだなんて夢は所詮、欺瞞だ」
「……じゃあ、どうしろって言うんだよ」
「一人いるだろう、感動させたいやつが」
「まさか……君かい?」
「とんぼの為に芝居を描く馬鹿がいるか」
「じゃあ、誰だよ」
「お前だよ」
「僕?」
「ああ、お前自身だ」
気がつけば外からひぐらしの鳴き声が聴こえてきている。空も闇がかかり、夕焼け空の間から、ぬるりと夜がはじまろうとしていた。
「お前の視点はお前だけのものだ。お前の思考はお前だけのもの、お前の感覚も、経験も、価値観も……全てお前だけのものだ」
「そのすべてを、作品にぶつけろ。お前の感情、情動、衝動、魂に……勝手に人は揺さぶられる。お前自身が感動する作品をお前のために描くんだ」
「よく、分からないな」
「……そのうち分かるさ」
とんぼは、そう偉そうに言うと、ぱたぱたと自身の羽を動かし、すいーっと宙に浮き始めた。
「じゃあな、青年」
「行くのかい」
「ああ、夜がはじまる」
「また来てよ」
「さあな」
そう言いながら顔を再びキョロキョロとさせると、とんぼは4枚の羽をはためかせ、真っ直ぐに窓から外に出て、夜の闇に消えていった。
僕はまた、淋しい机に独りで取り残されてしまった。夜空に浮かぶ、まんまるの月を眺める。夜の風はひどく涼しくて、僕の頬を静かにすべった。やれやれ、今夜もどうにも眠れなさそうだ。
僕にだけ見える世界か。
なるほど、面白い。
──よし、いまから見にいこう。
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