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第一話 泥とスイレン
今年の夏も特に何があったってわけでもない。ただ暑くて電気代がかかり、不快なだけの東京は、九月も終わりだってのにクソ暑い。おまけに……。
―台風の進路はこの後真夜中頃に首都圏を直撃し……。
―電車の運転の見合わせが始まっており……。
冷蔵庫の上に乗ったブラウン管のテレビが、東京に訪れる季節の一大イベントをどこか嬉しそうに報道している。窓を押す風雨はだいぶ強くなっており、この台風は既に今日、おれに幾つか恩恵をもたらしたが、このクソ暑さはどうにかならねぇのか?
「ダメか……」
悪態と言うほどじゃない呟きと共に、古いエアコンを十九度でスイッチを入れた。台風が来るのは別にいい。どちらかと言えば台風はおれに恩恵を持ってくる。ただ、この湿度と暑さだけは別だ。楽しむには少し過酷だった。
「また負けたよ」
不動産屋の二階にある、この秘密基地みたいなおれの部屋は、正規の物件じゃない。そして、入居した時から風呂以外のものは全て備え付けてあったが、まあ備品が一通り古い。エアコンも例外じゃないのだ。六畳半の部屋は真夏の西日以外は何とかエアコンで凌げるが、このエアコンは微妙に古い。つまり電気代が高い。いや、高いのも別にいいんだ。
このクソ暑さを風雅に楽しむ限界を迎えたのが気に入らないってだけで。
(たまには酒でもやるか……)
楽しみ方の方向を変える事にしたおれは、ごくたまにしか飲まない酒でも吞む事にした。どうせ明日は仕事にならない。無職だが仕事だけは腐るほどあったが(果たして無職とは?)、それでも明日はまず休みだろう。たまに首都圏を直撃する台風は、その直後の風雨に磨かれた空が綺麗で、それを想像してつまみにするだけでも酒が美味くなるってもんだ。
何か適当な映画でも見ながら、適当な酒を飲んで寝る。酒を飲む事に抵抗はいつもあるが、たまには無理やり気を緩めるのもいい。そう思いかけたところで、ニュースが電車の運行見合わせを報道していたのを思い出した。
(ああ、やっぱり酒は相性が悪い)
見なきゃいい携帯のメールを見ると、やっぱりメールが入っている。
―送信者:スイレン
―電車が止まるかもって。
赤坂の料亭でたまにアルバイトをしている女、スイレン。今日は金曜日で、彼女が働いている日だった。普段ならメールを返しても、限られた休憩時間にしか返事が来ないが、こんな時は違うのをおれは知っている。
―どうしたい? 車は出すけど。
案の定、数分で返信が来た。
―とても助かります。一時半には出てこれると思うので。
―わかった。送るよ。
こうして、酒を飲むという選択は無くなった。酒と疎遠な自分の人生は、正直ありがたい。人生に時に何も期待しちゃいないが、酒は大抵、マイナスだと思っているからだ。せいぜいゼロにとどめておきたいのだ。
既に時計は深夜零時を回っている。ここから赤坂まで、台風によるイレギュラーを考えたら、もう出発していい時間だ。裸の大将みたいなランニングにトランクスという姿から、カーキのカーゴパンツに黒い制汗Tシャツに着替えると、古い建物特有の急な階段を降り、激しい風雨の中、駐車場に向かう。
未舗装の駐車場に停まる、既に十五万キロを走った古いバネットトラックは、すり減った鍵を突っ込んでひねると、頼りになる古強者のように心強いエンジン音が背中から伝わってくる。
夕方に突発の仕事でずぶ濡れになったせいで、運転席はまだ湿っているが、助手席はそうじゃない。荷物も大して積んでいないので、女一人を乗せるのには十分な状態だ。それでも一応、何枚かタオルを持って来てはいる。
(行くか……)
地主の家の多い静かなこの区画は、各戸が広く屋敷林も多い。その大きな木々がだいぶ揺れ始め、道路には枝や落ち葉が散乱し始めていたが、別に障害にはならない。
†
赤坂までの道はスムーズだった。何か面白いものが見られればという期待は少しだけ裏切られたが、順調ならそれはそれでいい。人を乗せて楽に離脱が出来る一ッ木通りに車を停め、到着した事と場所を伝えると、しばし待つ。
やがて、三度目ほどの人の塊の中から一人が離脱し、こちらに向かってきた。紺のスカートと白いシャツ、だが何より、背の高い人陰ですぐにわかる。スイレンは背が高めで、モデルに近い仕事をしていた事もある。
ハザードをつけたトラックなんて、業者以外はこの時間に赤坂にまずいない。それだけに目立っていて、スイレンらしき人影はすぐに気付いてゆっくりと手を振った。既に風雨はだいぶ強いため、降りて助手席側のドアを開ける。
「お疲れ様」
「やあ、本当にすいませんね……」
長い髪が揺れる。おどけているようで、これが素のスイレンだ。
「助手席はタオルを敷いてある」
「別にいいのに」
ドアを閉めて車を出す。スイレンはハンカチで濡れた髪や腕を拭いていたが、置いてあるタオルに気付いたようだ。
「それも使って。こんな事もあろうかと持って来た」
「うわぁ、気が利きますねぇ。きっとおモテになりますね」
「だといいんだけどな。昔、婚約破棄されたのでトラウマなんですよ。うっ、胸が痛む……メンタルクリニック行かなきゃ」
おれは胸を押さえて繊細な人物の演技をして見せた。スイレンはにっと笑う。
「よほどひどい女だったんですね。もう大っ嫌いでしょう?」
「大っ嫌いになれればいいんだけどね、なかなか魅力があるんだよ、これが」
「そんな女、やめた方がいいとは思いませんか?」
こんな時のスイレンは本当に楽しそうだ。
「こういうのは理屈じゃないそうだから、別にいいんじゃないか? 人生に夢も希望も要らないもんだが、少なくとも楽しいしな」
「……泥さんは良い男ですねぇ。タオルありがとう。洗って返しますね」
「洗わないままでもいいぞ?」
意味深な言い方をする。
「絶対に洗って返します。なんだったら新品の詰め合わせでも」
スイレンはこういう空気の読み方が抜群にうまい。
「では家までの旅に出発だな!」
「待って、……今日は泥さんの家に泊めて欲しいのだけど。帰るのは明日の夕方くらいでいいし」
「は? 何で?」
「お母さんと派手にケンカしちゃって、『明日の夕方くらいまでは帰らない』って言っちゃった」
「またか……」
スイレンはしばしば両親と大喧嘩する事があった。大抵、特に大きな理由があったわけではない。外見は理想的な家庭だが、家庭としては機能不全になっている印象だった。
「わかった。おれも明日は多分休みだしな。今夜はたまには酒でも吞むかと思ってたんだが、飲まなくて済んだのは助かってる」
「あら、貴重な時間を邪魔にしましたか?」
「いや、酒嫌いだし。こういう時間の方が楽しい」
「私も。あ、コーヒー買って来たよ?」
スイレンはバッグから無糖の缶コーヒーをよこした。
「ありがとう。じゃあ、台風の中をしばしドライブだな」
「わーい! ドライブ大好き!」
おれはため息をついた。疲れたため息ではなく、スイレンの屈託のなさで落ち着いた。酒などよりよほど良かった。台風の風雨は少しだけ心の乾いた領域を潤すが、心には様々な領域がある。困ったことに、自分の心の中に広がる暑い砂漠も、冷たい砂漠も様々だったが、スイレンがそれを一番潤せる。
(困ったことにな……)
空気からしてわくわくしているスイレン。親からも無口と思われている、この背の高い美人は、実はとても感情豊かな女だった。たぶん、おれだけがそれを知っている。
こうしておれは、かつて一度も恋人同士にはなっていなかったのに、なぜか婚約をして、しかもそれを破棄した女を、自分の部屋に泊めるために台風の深夜にドライブをすることになった。
台風の風雨は次第に激しくなっていたが、スイレンも自分も、業の深いことにこのドライブを心から楽しんでいた。
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