第二話 スイレンという女

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第二話 スイレンという女

 都内中心部を遠ざかると、台風のせいで大通りはどこもまばらだ。あまり台風の洗礼を受けない街路樹の葉が道路に散らばっているが、樹皮にこびりついた都会の微粒子が洗い落とされてむしろ気分がいいだろう。  看板が吹っ飛ぶとか、大枝が吹っ飛ぶなんてイベントも特に起きない。 「今日ね、〇〇先生の所の人たちが来てたの。すごく盛り上がってた」  これは与党のそこそこ有名な議員だ。赤坂にあるスイレンの店は、奥まった座敷席も多く、スイレンのような和風の制服を着たアルバイトの店員もいれば、ちゃんと女将や仲居さんもいる店で、しばしば有名人が来ることもある。 「なんだい? まーた事務仕事とか見学とかで誘われたりとか?」  スイレンの働いている店のアルバイトの女の子たちは、何人かはある芸能事務所の子たちだ。スイレンもその一人だった。 「そういうのは、今日は無かったよ。あの先生は前に秘書さんの名刺貰ってたし」 「わりとしょっちゅう酒飲んでるよな、偉い人ら。夜中の赤坂は運転手を待たせた偉い人だらけだ」  色々と幅広く動き回っているおれは、一日の間にこの世の中の格差を全て見る事も多い。七十を超えても日銭が必要で働く老職人たちが、夕方に呑むワンカップや発泡酒と、夜の打合せの時に話す人々が、高級な車に運転手を待たせて飲む高い酒。  その味の違いが、おれにはわからない。いずれにせよ、酒はあまり必要のないものだった。 「泥さん、あまりお酒好きじゃないもんね」  おれがほとんど呑まない事を知っているスイレンは、たまにこの話題を出す。 「吞むと不安を感じるほうだからな。娯楽の中では順位がだいぶ低いってのもあるかな」 「ほうほう、そんな泥さんにとって、スイレンさんは何番目くらいの娯楽ですか?」  台風とドライブが、スイレンの口を少し軽くしている。 「ん? それはつまり、この後男性娯楽ジャンルの何かが待ち受けていると……」 「質問を間違えました。疲労が限界を超えています。休息が必要でーす」  くっくっく、という文鳥みたいな笑い方をして、スイレンは視線を道路に移して静かになる。しかし、この沈黙はいつも、何か話したい事がある時のものだ。 「ふらふらするのをやめて、警察官とか公務員の試験を受けつつ、司法試験の勉強を真面目にやれって言われたの」  喧嘩の原因の話だ。これだったか。 「言っても無駄なのになぁ」  スイレンには何を言ったって無駄だ。生きたいように生き、したいようにする女だ。実際、両親は何か言っても、言うだけで強い意志を持って何かを強制しようとはしない。出来ないんだ。その証拠の一つに……。 「どうせ、おれの事もアンタッチャブルだろ?」 「うん。今日だって、どうせ泥さんの所に行くってわかってる。でも何も言わないよ」 「本当に自信があり、我が子の為って思ってんなら、そこ曖昧にしちゃダメだよな」 「もう無理なんだと思う」  おれの家庭もそうだったが、スイレンの家庭もそうだ。機能不全の家庭は多い。ただ、今はもうそんな話をするべきじゃない。そんな話がしたくて来たわけじゃないのだろうから。 「ま、せっかくなんだし気分変えるか。飯とかは?」 「まかない食べてきた。 泥さんは?」 「おれも特に腹は減ってない。一番したい事は?」 「……ゆっくり眠りたい」 「いいよ。おれも適当に過ごして寝る」  気を使って即答したが、それでもスイレンは何かを気にする空気を出していた。そんな空気を出す必要ないって意味での即答だったんだがな。 「……ごめんね?」  男の部屋に来て、ただ眠る、という事に対しての気遣いだろう。全て吹っ飛ばしてやりたくなった。 「やかましいわ!」 「ええ?」 「疲れて何も考えずに眠りたいなら寝りゃいいんだよ。 学歴も金も権力も見た目も通じない、色んな男を叩き落としてきた魔性の女がそんな事を気にするとか」 「ちょっと⁉」 「伊達に長い付き合いじゃねーぞ? 万夫不当の泥さんはなぁ、女が『疲れた』って言ってるなら、そのままほっとけるくらいには経験値高いわ! 哀しい位高いわ! というわけで豪快に寝たらいいよ」 「うわぁ、なんか泥さんがかっこよく見える。あと、魔性の女って私の事でしょうか?」 「心なしか普段かっこよくねぇような言い方に聞こえる。魔性の女うんぬんより、まずはそこをよく議論したい」 「すいません、泥さんはかっこいいです。心からそう思っています。ええ」  スイレンは全く抑揚のない、事件のインタビューを受けた近所の人みたいな口調でそう言った。 「……今日って何日だっけ?」 「何の話? えーと……」  スイレンは怪訝そうに今日の日付を答えた。 「あー、思い出したわ。紳士的な生き方をするの、確か昨日で終わりだったんだわ」 「あっ、すいません、泥さんはとっても男らしい人です。こんないたいけなウサギみたいな女の子が疲れたと言ってたら、何もしないでも一晩泊めてくれる本当にいけてるメンズさんです」 「……女豹の間違いじゃねぇのかな? こう、心を噛み殺す系の」  ぼそりと小声でつぶやいた。 「あらひどい台風ね、何も聞えなかったわ」 「良い耳をお持ちで」 「ところで、魔性の女に関しては訂正を求めます。みんな私をちゃんと見ないで思い込みで突撃して来ただけです。はい、ここで世の中の勘違いしてる男性に言っておきます。学歴とか収入とか立場は全部、記号なんです。あなた自身ではないの。記号で勝負したい人は記号を気に入ってくれる女の子に突撃してください。その代わり、記号が無くなった時が縁の切れ目なのも忘れないでねっていう。ここテストに出ますよ?」 「いや誰に言ってるんだよ!」  運転の集中が途切れそうなほど笑ってしまった。スイレンはたまに感情を爆発させる。ただ、その爆発の仕方がいつも予想と違い、虚を突かれる。今回もまたやられた。 「なーにが魔性の女よ! 勝手にイメージ作って勝手に言い寄ってきて、勝手に振られたら悪く言うとかほんとバカみたい! ……あっ、泥さんは入ってませんよ? たぶん」 「たぶんをつけるな。おれにまで刺さる」 「魔性の女の戦場は怖いですよ? 流れ弾がこう、泥さんに」 「銃口をこっちに向けた感じでしゃべるな。泥さんはもう、死んでいるから。死体に銃弾撃ち込んでもそれ以上死なないからな?」 「やだ、死なないで泥さん。今夜ぐっすり眠れる場所がなくなっちゃう!」 「心配すんのそっち? やりたい放題だな」 「てへっ、お陰様で」 「『てへっ』じゃないけどな。あと、お陰様でもない」  しかし、これは良い兆候だった。親でさえ無口な女と思っているスイレンが沢山喋る時は、とても気を許している時でもある。親との喧嘩も気がまぎれたのならそれでいい。  それと、ここでちょっとベッドの話をしておこう。おれの部屋の家具はお手製なのだ。本棚やオーディオの台、ベッドは全て仕事で余った高級な部材で組んである。わざわざCADで図面を引いて、専用工具で加工し、ビスを使わずに分解・組立ての出来る優れモノだ。  このうち、ダブルサイズで組んで、マットレスにのみお金をかけたベッドは会心の出来だったのだが、ここで寝る事がスイレンのお気に入りだった。金にも権力にも学歴にも靡かない女が、ベッドの寝心地には弱かったらしい。しかし、このベッドの良さが分かるとは、流石違いの分かる女……。 「泥さん今何考えてるの? やらしい事?」 「何でそうなる? ベッドの事だよ」 「ほら、やらしい!」 「違うわ! いや、おれのベッド気に入ってるだろ?」 「そうだねぇ、ベッドとなら結婚してもいいかなって」 「もう少し言葉を選ぼうか。よく、おれそっちのけでベッド褒めてるけどどこが好きよ?」 「高さ、幅、コンセントと照明の位置に、コーヒーや食べ物も置いとける棚、寝っ転がっても映画やゲームを楽しめ、冷暖房や日光との関係も、眺望も絶妙。そして柔らかくも柔らかすぎないマットレス。これを作った人はきっと、趣味人にして怠惰を分かってる人だと思います」  スイレンはよどみなく即答する。 「設計兼製作者ここにいますが」 「ほらほら泥さん、そろそろおうちですよ? ベッドが待っていますよ?」 「別におれの事は待ってねぇと思う。あと、ベッドは記号に入らないのかね?」 「それは後世の人々の評価にゆだねましょうか。かっこいい人は細かいことを気にしてはだめですよ?」  そして、しばしの沈黙が流れる。また何か言いたい事があるのだ。 「……泥さん」 「んー?」 「ほんと、ありがとうね」 「気にすんな」 「ふへへ」  スイレンが本当に嬉しい時の笑い方の一つだ。まあ実際、楽しいからいいのだが。  台風の威力は弱まりつつあった。朝には熱帯低気圧に変わっていそうな雰囲気だ。そして、あっさりとドライブは終わってしまった。
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