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第三話 美人はすぐには眠れない
駐車場に車を停めて、すぐ近くの駅の照明の光に躍る雨を見る。台風は予想ほど激しくなく、大した被害は出無さそうだった。
「傘は?」
「大丈夫!」
台風が楽しいのか、スイレンの声が弾み気味だ。
雑居ビルの間の奥まった通路から、表通りからは見えづらいドアを開け、暗くて急な階段を上ると、隠れ家みたいな我が家もとい、我が部屋に着いた。
でかいベッドに、大きな机とパソコン、そして懸賞で当たったスロットマシーンに、あとはスチールの棚という殺風景な部屋だ。
「あーもう、この秘密基地感がわくわくする! こんなところに住んでるなんて、いつも思うけど泥さんてロマンチストだよね~!」
確かにこの部屋は特殊な物件だ。住むようになった経緯も、家賃も、色々とあり得ない。
「いやいやスイレンこそ。でもこういう部屋に住む男には、金と権力は無いもんだぞ?」
金も権力もある男に随分言い寄られてきたはずなのに、こういう部屋を心から良いと言ってテンションが上がっているスイレンに、こちらも笑顔になってしまう。
「私は良いの。違いの分かる女だから。ふへへ」
「そうかい。まあ、お気に入りのベッドもあるし、好きに眠ってくれ。あと、シャワーも」
「ありがとうございます。いただきます。手厚いですねぇ」
スイレンは無駄に丁寧に頭を下げた。
「恩返し、期待してます!」
「えーと、こんな時は見返りを求めない高潔な姿勢が求められるものなのです。でも、泥さんは十分に高潔な人だと思うので、心からお礼を言いますね」
おれは急いで気を引き締めた。スイレンはおれの手を両手で取り、少しだけ首をかしげると、心からの笑顔を演じる。
「ありがとうね、泥さん」
柔らかな、何とも言えない品のある笑顔。女優もできるほどの綺麗な女のこれは、おれには効き過ぎる。余計な事を言ったと後悔したがもう遅い。
「あー、もういいこっちの負けだ! 負け負け。良いシャワーと良い睡眠を楽しんでくれ」
こんな時のスイレンは何かに喜んでいるような笑顔を浮かべるが、それがどんな意味なのかがおれにはわからない。とても機嫌のいい時のニヤニヤした笑いを浮かべながら、スイレンはカーディガンを脱いだ。
「おいこらカーテンくらい閉めろよな!」
「今から閉めまーす!」
こうして、スイレンはしっかりとカーテンを閉めると、シャワールームに入った。このカーテンもシャワールームも、スイレンが遊びに来るからとおれが後から作ったものだ。おれ自身は近所の銭湯で十分だったのだが、女が来るならそうもいかない。
上機嫌なスイレンの鼻歌とシャワーの音、そして窓にあたる台風の雨と風。何やら心が高揚するのは、おれが男だからだろうか? そんな事を考えながら、電気ケトルでお湯を沸かす。真夏でもスイレンは暑いお茶を好むし、おれは氷たっぷりの冷茶が飲みたかった。
「シャワー頂きましたー」
ほどなくしてカーテンの向こうからのスイレンの声。
「はいはい、お疲れ」
「あのう泥さん、しばらく体操しようと思うんだけど、下着のままでもいいかな? 服着ないとダメ?」
これは、『はしたないんじゃないか?』という点をおれが気にするかしないか確認している。スイレンはこういう所がある。
「いやまあ別に、素っ裸でもいいけど」
「セークーハーラー! そういうのは駄目です。まあ下着の上にパーカー着るけど」
ごそごそした音が続き、やがてカーテンが開くと、おそらく下着に大きめのパーカーを着たスイレンが現れた。化粧を落としているが、もともとナチュラルメイクなのでそう変わらない。しかし、長い生足にパーカーは攻撃力が高すぎるだろう。冷静でいられるのはおれくらいだろうな……。
「足が眩しい。あと、お茶、淹れてあるぞ」
「ホット?」
「もちろん」
小さな木箱をお盆代わりにして、熱いお茶の入ったマグカップを載せたそれを渡す。スイレンはベッドに上がると、ピラティスのような体操を始めた。スタイルを維持するための様々な体操を長い時は一時間以上もする。
「今日はどれくらい?」
「んー、三十分ちょっとかな?」
「おつとめご苦労様です」
「お尻の形がね~、一番気になるかな。大きめだから引き締めて小尻にしておかないと」
四つん這いの姿勢から片足を後ろにピンと伸ばす姿勢を取りながら、スイレンが説明する。綺麗な足が少し眩しい。
「おれは反対だな。女の尻は大きい方がいい。そして、胸はどうでもいい」
おれは過激派めいた主張をした。
「私の希望と逆だね。考えは真逆なのに身体はそんな感じになってるのが悔しいなぁー。私が欲しいのは小さいお尻に大きめの胸なんだけど」
この話題は互いの主張を言い過ぎると喧嘩になるので、どちらも相手の出方を伺う空気が漂い始める。大抵の女は自分のコンプレックスを容認されることを好むが、スイレンはそうではない。全く妥協しないどころか、下手したら怒る。他者の評価なんて関係ないのだ。
「とにかく、泥さんの趣味には屈しないわ」
「屈したらスイレンじゃないしな」
「という事は私、いずれお尻が小さくなって胸が大きくなったら、泥さんに捨てられるのね。ぼろぞうきんのように」
「その場合は尻派から胸派に転向するから何も問題はない」
「泥さんの性癖に対しての思い入れはそんなものなの? 私のお尻が好きっていつも言ってるのに?」
「それらはもちろん大好きだけどな、人間、大事なのは中身なんだよ。知らなかったのか?」
あえて薄っぺらい言い方で返す。
「ふーん? でもそっか。私にこうやって付き合い続けるの、泥さんだけだもんね」
ここでおれは、スイレンがいつもよりも少し弱気な気がした。
「おれは美意識が高いからな」
もう少しだけおどけた空気を乗せる。
「そうですかー」
「なんだ? 元気ないな」
「そりゃあね、色々あったもの」
やはり親との事が尾を引いているらしい。
「……気にしなきゃいいんだよ。好きに生きてる自分を無理に変える事はない。親の言う通りに生きる人なんて、代わりは幾らでもいるんだ。自分の人生を生きたらいい」
「自由に生きすぎてめっちゃ迷惑かけてるのに、そんな事言ってくれるのね」
「おれの方が自由に生きてるさ。親との縁を切ったし、完全に根無し草だ。でも別に孤独に死んでも、自由の方が価値があると思ってるよ。そして、嫌いではない人の自由に多少協力できるなら、それは意義があると思える」
スイレンはエクササイズを止めた。
「……婚約を破棄した女相手でも? 好きな時にエッチな事もできないのに?」
「そういう自分に酔ってるんだよ。こんな自分がかっこいいと思ってるんだ。まあ趣味だな。だからほっといててくれ」
「その趣味はいつまで続くの?」
お茶のマグカップを手にしたスイレンは、興味深げだが少し影のある表情をしている。
「わからないけど、明日くらいまでは続くんじゃないか?」
「近っ! 不確定ですね!」
「そりゃそうよ。男と女の関係なんてそんなものだ」
スイレンは飲もうとしていたお茶を置き、しばらく笑った。
「じゃあ、明日までの時間を大切にしないとダメですね。そんな泥さんは、明日は何をする予定ですか?」
「Aルートが、この後激しく爛れた性的な時間を過ごした後にぐっすり寝て、朝は『カメリア』のサンドイッチと珈琲を楽しみ、その後はそうだな……蕎麦屋にでも行ってじっくり時間を過ごすかな?」
『カメリア』は近所にあるサンドイッチの名店だ。
「お蕎麦屋さん? ……Bルートについても聞きましょうか」
「AルートからR18展開の無くなったのがBルートだな」
「ではそれで」
「勝手に決めるな。人生はギリギリまでどうなるか分からないんだぞ?」
「ここだけの話なんですけど、Aルートを通ると、泥さんの人生の裏ヒロイン『スイレン』の好感度が下がって、将来的にできるエッチな事のバリエーションが減るという隠しパラメーターがあるのをご存知ですか?」
「Aルートは言ってみただけだ。真の男はBルートを選ぶ」
「はい決まり! 明日がとても楽しみになってきたのでそろそろ寝ますねー」
「おい待て、Bルートで増えるエッチな事って何だ?」
「そこに食いつくの? それはもう、言葉にできないようなものです。だから説明はできないですねー」
「そうかい」
ほどなくして、スイレンは寝息を立て始めた。照明を落とすと、台風で揺れる街路樹の影がカーテン越しに見え、波のように風雨が窓にあたっている。しかし、部屋は妙に静かで心地よい。
この不思議で安らかな静寂をスイレンは好んでいたが、一人ではこの空気は出ないのだと言う。同様に、おれ一人だけでも出ない。そして、この妙な安らぎが、腐れ縁のようにいつまでも二人を結び付けている部分がある。
ただ、そこに一般的な将来への展望などまるでないのだが、これは何なのだろう?
(まあいいや、寝るか……)
おれは本棚近くの簡易ベッドに横になると、台風の様々な音にスイレンの微かな寝息を薬味にした、絶妙な高揚を閉じ込めるように目を閉じた。
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