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優しい手〜中学生編〜
五月の快晴の下、中等部の体育祭が行われていた。
校庭全体を使って行うため、土曜日が中等部、日曜日が高等部で分かれていた。そのため今日は高校生が何人か手伝いとして参加していた。
そんな中、一花は医務室までの道を歩きながら落ち込んでいた。先ほど参加した五十メートル走で派手に転び、最下位になってしまったのだ。
恥ずかしくて死にそう……ゴール手前で顔からいっちゃうなんてありえない。放送でも大々的に転んだことが流れた上、学校中から頑張れコールまで受けてしまった。
もう顔を上げて校舎内を歩けないかもしれない……。
鼻の頭がヒリヒリする。一花はため息をついた。思わず下を向いたまま立ち尽くす。
その時突然肩を叩かれ、一花はびっくりして後ろを振り返る。
そこには高校の制服を着た男の人が立っていた。一花の鼻の頭の怪我を見て微笑む。
「さっき派手に転んだ子だよね。いつまでも来ないから迎えに来たよ」
端正な顔立ち、その優しい声に一花は少しだけドキドキした。見た目はかっこいいのに、雰囲気や物腰は柔らかい。
「す、すみません……。なんか恥ずかしくて……凹んでました……」
「あはは、まぁ結構な勢いだったしねぇ。でも一生懸命走った証拠じゃない? 恥ずかしがることなんかないよ」
「……そうなんですか?」
「そうそう。あとちょっとだったのに〜って笑い飛ばせばそれでおしまいだよ」
その人は一花を医務室前の水道に連れて行くと、膝を洗い始める。
「一応水洗いしてから、消毒と絆創膏ね」
医務室の中に入り、消毒をしてから大きめの絆創膏を貼ってくれた。手際良い動きに、一花は口を挟む暇もない。
「あっ、鼻の上もか。ここはそのまま消毒しちゃうね。絆創膏はどうしようか? 女の子だし、こういうのって逆に恥ずかしかったりする?」
一花は少し考えてから頷いた。頭の中にガキ大将の男の子をイメージし、ぞっとする。
するとその表情の変化に気が付いたのか、絆創膏を一花に手渡した。
「もし貼りたくなった時は使って」
「あ、ありがとうございます……」
その人はにっこり微笑むと、一花の頭を撫でてくれた。その瞬間、一花の心臓がまるで早鐘のように鳴り始める。
「よく頑張りました」
子ども扱いでも、褒めてもらえたようで嬉しかった。でも何故だろう。急に息が苦しくなる。
「あの……今日は高校生が医務室の当番なんですか?」
「う〜ん……俺は急遽の手伝いかな。さっき三年生の男子が騎馬戦で落下したでしょ? 先生、その子を病院に連れってるから、その間俺が留守番」
確かに一時中断して生徒が医務室に向かっていたが、そんなに重傷とは知らなかった。
一花はふとその人の胸についた名札に目を留める。
『千葉尚政』
緑の学年章をつけているから、きっと三年生だろう。
名前を知った途端、今度は頬が熱くなる。なんだか今日の私はおかしい……。早いところみんなの所に戻ろう。
「あの、ありがとうございました!」
「はい、お大事にね」
再び校庭に出てから、もう一度医務室を振り返る。彼が手を振っていたから、一花はお辞儀をして走り出した。
なんでこんなにドキドキしてるんだろう? 息が苦しいんだろう? 頬が熱いんだろう?
* * * *
二年生の席に戻った一花は、頬を両手で押さえながら、高鳴る心臓を静めようと大きく深呼吸をする。
高等部は校舎も違うし、部活の先輩以外とはほとんど関わることはない。だからこそ、二年生になっても初対面の人もいる。
あんな素敵な人がいたんだ……。でも高校生だし、三年生だし、きっと会うこともなく卒業しちゃうんだろうな……。
先輩の手が触れた頭の感触が、今もまだ残っている。とても優しい手だった。笑顔も声も、たとえ外面でもいいと思えるほどのときめきだたった。
「あっ、一花! 大丈夫だった?」
一花を見つけた芽美と智絵里が、心配そうに駆けてくる。
「うん、さっき消毒してもらったから大丈夫」
「……一花、顔赤いけど熱とかない? もう一度医務室に行く?」
「そ、それはダメ!」
一花の慌てぶりが珍しく、二人は顔を見合わせる。
「平気〜とかじゃなくて、ダメってどういうこと?」
「そ、それは……」
口ごもる一花を見て、芽美は何かを閃いたのか、ニヤッと笑うと、
「ちょっと医務室見てくる! 一花を押さえておいて!」
と言って医務室まで走って行ってしまった。
あっという間の出来事に、一花は何も出来なかった。慌てふためく一花の横で智絵里がニヤニヤしている。
すると芽美が興奮した様子で戻ってきた。やや食い気味に智絵里が話しかける。
「どうだった⁈」
「めっちゃイケメンの高校生がいた!」
「えっ! じゃあ私も見てくる!」
入れ替わるかのように、今度は智絵里が医務室に向かって走り出す。
芽美は笑いを隠せず、顔を真っ赤にしたまま下を向いている一花に話しかける。
「なになに? あのイケメンの先輩にときめいちゃったの?」
そして智絵里も戻ってくる。
「すっごくかっこいい先輩じゃん! あんな人がこの学校にいたなんて知らなかったよ〜!」
「でしょ? 私もびっくりした」
二人は一花の肩を両側から抱くと、顔を近づけた。
「好きの基準がわからなかった一花ちゃんが、とうとうときめいたと?」
「で、でもちょっと会話しただけだから……」
「だとしても、一花の第一関門を突破したわけだからね、すごいじゃん」
「……でも三年生だし、私なんか相手にされないよ。校内でも会える可能性は低いし……」
「そっか……せっかく一花がときめいた人なのになぁ。残念だね」
「まぁもしかしたら校内で会える可能性もあるしね、先輩センサーを張り巡らせておこうか」
三人は笑い合う。
また会えたら嬉しいな……一花はポケットの中の絆創膏にそっと触れ、心の片隅でそう思うのだった。
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