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その日は待ちに待ったマフィン作りの日だった。
音楽室に向かう吹奏楽部の芽美と智絵里と別れ、一花は調理室へ急いだ。
この学校の校舎はカタカナのコのような形をしていて、中等部と高等部の校舎の間に、職員室や各教科ごとの部屋などが集められている。体育館へは各校舎から渡り廊下が伸びていて、直接行けるようになっている。
調理室のある一階へと階段を降り、教室の扉を開けた。中では部員たちが着々と準備を進めていた。
「一花ちゃん、遅かったね〜」
「急に先生に頼まれごとされちゃって。遅れてすみません」
「大丈夫大丈夫」
中学三年生の先輩が笑顔で話しかけてくる。中学二年生の部員が一花しかいないため、先輩たちはよく話しかけてくれるのだ。
エプロンと三角巾をつけて手を洗うと、柴田と園部に手招きをされた。一花が近寄ると、
「今日は一緒に作ろうか」
と言われる。
「いいんですか?」
二人のことが大好きな一花にとっては何よりも嬉しい誘いだった。
「一花ちゃんにはちょっと簡単かもしれないけどね、誰かにあげたくなるくらい美味しく作ろうね!」
「はい!」
小麦粉をふるい、材料を混ぜ合わせ、オーブンに入れる。焼いている間に片付けを済ませていく。
調理室に甘いいい香りが漂い始めた頃、それは突然だった。調理室のドアが開き、誰かが入ってきたのだ。
調理室の後ろの方で、焼き上がったマフィンを出す作業を手伝っていた一花は、最初誰が入ってきたのか分からなかった。
その人は、前方のテーブルでラッピングの準備をしていた柴田に近づいていく。
「柴田〜、呼ばれたから来てやったぞ」
その声を聞いて、一花の心臓が跳ね上がる。
「おぉ、時間ピッタリじゃん。さすがA型男子の千葉だな」
「血液型って関係ある? それにしてもいい匂いだなぁ。今日はケーキなんだ」
「そっ、久しぶりにね」
「で、俺が呼ばれたのはなんで? ケーキくれんの?」
「そうなんだよ、お前の誕生日が来週だったのを思い出してさ、出来立てを食べさせてやろうという俺の優しさだ。感謝しろ」
柴田と尚政のやりとりを見ながら、一花はドキドキが止まらなくなる。
部員たちも尚政に気がつく。彼の存在を知らない中学生たちは、イケメンがいると騒がしくなる。しかし既に知っている高校生は、大して気に留めない。
「先輩、あの人って……」
「ん? あぁ、三年生の千葉先輩。話すと面白いよ」
高等部ではそんなに目立った存在ではないのだろうか? 反応の差に一花は少し驚いた。
先輩たちと一緒に焼き上がったマフィンを前方のテーブルへ置くが、目の前に尚政がいると思うと、緊張して顔をあげられない。
「じゃあそれぞれ自分のを持って席について。食べてもいいし、誰かにあげたい人はここにラッピングの袋があるから、粗熱が取れたら好きにして〜」
柴田の言葉とともに、みんなが騒ぎ始める。
そんな中、園部に呼ばれて一花は尚政の正面に座る。
「かわいいでしょ? 一花ちゃんっていうの。中等部の二年生なんだけど、料理の腕はプロ級なんだから」
「そうそう。俺のお気に入りの一人だぞ」
二人が一花のことを尚政に紹介すると、彼は興味深そうに一花を見た。その視線を感じるだけで息の仕方を忘れそうになる。
「へぇ、この二人から気に入られるなんてすごいじゃん。いちかちゃんってどういう字を書くの?」
「えっと….一つの花って書きます……」
「ふーん、名前もかわいいね」
「そうだろうそうだろう。まだ何者にも染まっていない純で健気な感じがたまらんだろう」
「……たっちゃん、なんかセクハラっぽくて嫌なんだけど」
「なぬっ⁈」
一花は先輩たちのやりとりを見ながら少しだけ顔を上げてみる。そこにはあの時と同じ、優しく微笑む尚政がいた。
目の前にいるなんて、こうして先輩とまた話が出来るなんて信じられない……。嬉しいのに言葉にならない。
「で、来週誕生日を迎える千葉くんに、調理部ホープの一花ちゃん手作りのマフィンを食べさせてあげようじゃないか。ねっ? 一花ちゃん」
一花の様子を見ていた部長がニヤニヤしながら言うが、一花は突然のことに驚きが隠せない。
「……なんか困ってるけど?」
「そ、そんなことないです! 先輩さえ良ければ……食べていただきたいです……」
誤解されちゃう……そう思って慌てて訂正する。
尚政は驚いたように一花を見た後、急に笑い出す。
「二人の言うこと、わかる気がする」
「でしょ?」
尚政は一花の方に向き直る。
「じゃあお言葉に甘えて、いただいてもいいかな?」
一花は何度も頷いてから、マフィンを皿に載せて尚政に差し出す。
「ど、どうぞ……。お口に合うといいのですが……」
「ありがとう。じゃあいただきます」
尚政は一口食べて、驚いたように微笑む。
「すごく美味しいよ。一花ちゃん、本当に上手なんだねぇ」
「そ、そんな!」
「千葉さ、何か食べたいのあったらリクエストしてみれば? 一花ちゃん、結構なんでも作れるよ」
一花が目を見開いて部長を見ると、彼は悪戯っぽい笑みを向ける。
そこでようやく、二人が一花のために話をしてくれている事に気付く。
「あっ、じゃああれ食べたいな。生チョコ。好きなんだよね。一花ちゃん、作れる?」
「はいっ、生チョコなら何回か作ったことあるので大丈夫です!」
「じゃあ今度食べさせてよ」
「ぜ、是非!」
一花がこれ以上ないくらいの笑顔で答えたため、尚政は二人がここに自身を呼んだ意図がわかったような気がした。
当の一花はそのことには気づかず、ただ二人のおかげで、尚政との繋がりが出来たことを喜んでいた。
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