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エレベーターの男
「おやすみなさい」
今日もだ。
「……おやすみなさい」
仕事や飲み会で帰りが9時を過ぎる時は、いつもなのだ。
マンションのエレベーターでいつも乗り合わせてしまう。
紺色のジーパンに、カーキ色のトレーナー。肩にかかる程の長さに無造作に伸ばされた髪。病的に痩せて、落ちくぼんだ目が虚ろで……はっきり言って「不気味」の一言で表せそうな外見の男。年齢は三十歳前後だろうか。
関わり合いになる気もないが、一応同じマンションの住人なので、乗り合わせる度に、毎回「おやすみなさい」の挨拶を交わし合ってからエレベーターを降りている。
それにしても、この男とは、他の住人と比べてあまりにも乗り合わせる頻度が多い。もしかしたらストーカーされている? と疑った事も二度や三度ではない。こちらは女性の一人暮らしなので一応警戒は必要だ。けれど、頻繁にエレベーターに乗り合わせる事以外は、今のところ、何もアヤシイ事は起こっていない。
私は12階に住んでいる。屋上を除くとこのマンションの最上階は13階。
夜の9時過ぎ、1階でエレベータ待ちをしていると決まっていつの間にか背後に例の男が佇んでいる。最近では慣れてしまったが、足音もせず気配もしないため、初めは随分と驚かされたものだ。そうして、二人で無言でエレベーターに乗り込み、12階で私は先に降りる。「おやすみなさい」と言うと、向こうもぼそぼそした低い声で「おやすみなさい」と返す。
だからきっと男は13階の住人だろうと考えていた。
しかし、先日、普段通りに男と「おやすみなさい」を交わし合ってエレベーターを降りた後、何気なく、後ろを振り返った。
エレベーターの階数表示が12階のまま動いていない。
私の背中にぞっとしたものが走った。おそるおそるエレベーターの下行きのボタンを押してみる。扉が開く。しかし、中には誰もいなかった。
あれは一体どういう事だったのだろう? と、私は部屋に戻った後もモヤモヤと考え続けた。
エレベーターが一度13階まで行って戻ってきた、と解釈するのは無理がある。そんな時間は経っていなかったはずだ。
もしかして、男は私の後をつけて12階で降りて……? でも、そうしたらいくら何でも気がつくはずでは?
いくら考えても考える程混乱してくるし、不気味だ。私はもうそれ以上は敢えて深くは考えないようにした。
ある晩、私は恋人と一緒にマンションに帰ってきた。もうすぐで日付が変わろうかという時刻だった。私はかなり酔っ払っていて、彼は苦笑しながらも私の体を支えて歩いてくれていた。
エレベーターに乗り込む。足元も覚束ない私は、彼に寄りかかりながら、ふと顔を上げた。目の前にあの男がいた。私の顔をじっと見つめていた。目を見開き、瞬きもせずに、真っ直ぐに、無表情で。
一気に酔いが醒めた瞬間だった。
エレベーターは12階に止まる。
私はごくりと息を飲み込み、何も言わずに、彼の腕に縋るようにしながらエレベーターを下りた。
「ほら、しっかりしなよ。もうすぐ部屋だからさぁ」
彼が呆れ半分で苦笑する声に安心感を感じる。
「……おやすみなさい」
少し遅れて背後からぼそりと男の声がして、エレベーターの扉が閉まる音がした。
私が引っ越しをすることになったのは、それから1ヶ月後の事だ。彼と結婚を前提に一緒に住むことになったのだ。
不動産屋で何件も物件を案内され、6件目でようやく二人とも気に入る部屋を見つけた。仮契約をした時にはもう夕方になっていた。将来への希望に心を弾ませながら彼とレストランで夕食を食べて、少し高いワインも飲み、タクシーでマンションまで帰ってきた。
エントランスの前で手を振って、彼が乗るタクシーを見送る。改めて腕時計を見ると、時刻は10時半を過ぎていた。
――あーあ。またあの人と乗り合わせちゃうなぁ……。
浮き足立っていた心が一気に重くなった。けれど、あの気味の悪い男の存在に悩まされるのもあとちょっとの辛抱だ。そう思うと、少しほっとした心地になる。
エレベータに乗り込む。扉が閉まる。12階のボタンを押して振り向くとやはりそこに例の男が立っていた。
私は、ふと、考える。
――そういえば、この人が13階のボタンを押すところ……見た事があったっけ?
視線が合うのが嫌で、いつもなるべく男の方を見ないようにしていた。
でも、今、改めて思い出してみると、男は毎回、影のように私の後ろについてエレベーターに乗り込むだけで、少なくとも12階に到着するまではピクリとも動く様子を見せない。そう……階数ボタンを押さないのだ。
――何で今まで気がつかなかったんだろう……やっぱりこの人は12階で、私を……。
気がつかなければ良かった。せめて引っ越しが終わるまで気がつかなければ……。
今、心からそう思った。
でも、気がついてしまった。
この人は階数ボタンを押さない。今までも、今日も、ずっと……。
エレベータが揺れて上昇し始めた。
動悸が速まる。足が震える。背中に冷たい汗が滴る。
階数表示板の数字が1個ずつ増えていく。その速度が今日はやけにゆっくりと感じられた。
私は目を伏せていた。私の赤いハイヒールと茶色く汚れた男のスニーカーが視界に映る。
顔を上げることはできなかった。
あの虚ろな乾いた目が私をじっと見ているのが、見なくてもなぜかとてもよく分かるから。
ガタンと世界が揺れ、エレベータが12階に着いた。扉が開く。
ああ、早く逃げなければ。
でも、慌ててはいけない。
この動揺を悟られてはいけない。
さもないと、この男に何をされるのか分からない。
いつも通りにして、何食わぬ顔をして部屋に戻り、そして……彼に電話をしよう。帰宅したばかりであろう彼をもう一度呼び出すのは申し訳ないが、今はそんな事に構ってはいられない。迎えに来てもらおう。ここにはもう帰らない。少なくとも、この夜が明けて太陽が顔を出すまでは。
「おやす、み……なさい」
自分ではいつもと同じように挨拶をしたつもりだったが、図らずも声が上擦ってしまった。
――落ち着いて。落ち着いて。深呼吸……。
自分に言い聞かせながら、エレベーターの外に一歩足を踏み出そうとした。
その時だった。
「お引っ越し……されるんですね」
男が言った。
予期せぬ言葉に私は思わず足を止め、振り向いた。
男は、充血しかかった目を大きく見開いて真っ直ぐに私を見ていた。
ポーン、ポーン、と電子的な音が響く。私の背後で扉が閉じる。
直方体に切り取られた空間に、再び、私と男、二人きりになった。
ガタン、という無機質な振動。
体がぐんっ……と、重力に逆らって持ち上げられる感覚。
エレベーターは上昇する。
私は男に向かって何か言葉を返そうとした。けれど、唇が微かに動くだけで声にはならない。
「……知っています」
男は私を凝視したまま、瞬きもせずに、言う。
「知っています。貴方の事は何でも、全て」
男の声に抑揚は無い。ただ淡々と語る。
「ずっと見ていました。貴方の事を。ずっと……こうやって」
男はそう言うと自分の下唇を前歯で噛んだ。がりっと音がしたような気がした。男の黄ばんだ前歯がギリギリと青白い唇に食い込む。血の滴が盛り上がり、男の顎をつうっと滴って、ぽたりと落ちた。その間にも、男の視線はずっと私の顔から離れない。
その瞬間、私は、男の無表情な目の奥に、狂おしい程に深い憎悪の感情を感じ取った。
エレベーターは上昇を続けている。
表示板の数字はまだ12階で止まったままなのに……。
どこまで上るのだろう?
早く……早く……止まって。
どこでもいいから、早く……私を一刻も早くこの空間から解放して……。
体が石にされてしまったかのように、私は男から目をそらせず、指先一本動かす事もできないでいた。
次第に意識がぼんやりと遠のいていく。
その時だった。
再び、足元が強い振動で揺すぶられた。
エレベーターが止まったのだ。最上階だ。
私は弾かれたように男から顔を背け、扉を見る。
開いている!
私はエレベータの出口に向かって泳ぐように両手を差し伸べ、もつれる足を動かし、必死で外へと向かう。
早くここから出なければ! 誰でもいいから助けを求めなければ……!
そうして、一歩、外に踏み出した。
しかし、足は宙を蹴った。
冷たい風が頬に打ち付ける。
住宅街が放つ明かりの群れが夜の底で瞬いているのが眼下に見える。
私は、今まさに自分がマンションの屋上から勢いを付けて飛び降りたところだという事を、まるで他人事のように認識した。
「……おやすみなさい」
落下していく私の背後で、いつもの男の声がした。
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