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「俺、甲斐邦宏。この近くのS商事に勤めてるしがないサラリーマン。」
「僕は加賀美圭吾。一応画家……です。」
「え、マジで?すげぇ~!」
「全然すごくないですよ。絵だけでは生活出来ないから、M大の美術講師やってます。」
「でも絵を仕事にしてんだ。すごいな。俺さ、絵ダメなんだよね。」
笑い混じりに話す彼の雰囲気に、最初は緊張して固かった僕の体は段々とほぐれていった。
「今度、先輩の個展に絵を出させてもらうんです。もし良かったら、見に来てくれませんか?」
知らずにそう言っていた。言ってしまってからはっと口を押さえる。驚いている彼の顔を見ているうちに、段々と後悔が押し寄せてきた。
「すみません!いきなり失礼ですよね。今日初めて会ったのに……」
「いや、俺で良かったら、見に行かせてもらうよ。いつ?」
「あ、再来週の日曜日です。」
「わかった。予定あけとくよ。あ、やべ!会社戻んないと。じゃあ。」
「あ……」
腕時計を見て慌てて立ち上がる彼。思わず声が出ていた。
「ん?」
「あの……アートフォーラム。」
「え?」
「この近くのアートフォーラムって所です。個展開く場所。」
「ああ。そこならわかるよ。じゃあ、再来週な。楽しみにしてる。」
「はい……」
じゃあ、と手を挙げて去って行く彼の背中を呆然と見つめた。さっきまで彼が座っていた所と僕の間には、僕のスケッチブック。僕はそっとそれを手に取った。一枚一枚ページをめくる。
彼がキレイだと言った僕の絵を、日が暮れるまで眺めていた。
――今思えば、もうすでに恋に落ちていたのだろう。彼を一目見た、その瞬間から……
だから僕は見ないふりをしたんだ。
ページをめくる彼の左手の薬指に、光っていた物を……
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