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恋と呼ぶには
さっきまでほの暗かった室内がオレンジ色の明かりで満たされる。
まるで「さっき」と「いま」を区切る壁がそこにはあるような気がして、ちょっと焦る。
指先五センチメートルのところにいたのになぁ。握っていた拳を開けば触れられる距離だった。
「先にいいかな?」と聞かれて「いいよ」と答えた。まだ体は重いだけで、気だるくて動く気がしない。何日ぶんの運動をしたのか、あちこち、体がきしむ。
ベッドの上で腕を枕にしてうつ伏せに寝転がっている。こんなところのベッドなんて汚くないのかな、と漠然と思っていたけれど、のりのきいたシーツは不思議と清潔に思えた。
ぺたっとしていると、体の火照りが冷めてくる。ちょうどいいと思っていた空調が効きすぎているような気になる。
シャワーの音が聞こえる……。
まるで雨音みたい。
気だるさが心地よい重みに変わっていく。自分の体がちょっと愛おしい。
どうしてそんな気持ちになったんだろう? こんな、やけっぱちなことをしたのに。今日のわたしはどうかしている。彼を、好ましく思ったのに理由はなかった。
バタンと眠気を覚ます音が聞こえて、身構える。
――どんな顔をしたらいいんだろう? 戸惑いから掛け布団の下に潜ろうかと考える。
わたしはやわらかい布団を下敷きにしていた。
「あのね」
思っていたより大きな声が出てびっくりする。出てしまった言葉は取り返しようがない。
……どうしよう、こんなこと聞いたらいけないのかもしれない。いまここにあるいい感じの空気が変わってしまうかもしれない。なにかが変わるのを求めているわけじゃない。いまを壊したくない。
聞いたらいけないことがわたしたちの間にはあるような気がして、言葉をしまってしまいたいと慌てる。
「なに?」
「……あのね、名前、聞いていい?」
頭を拭きながら出てきた彼は俯いていた顔を持ち上げてこっちを見た。視線が刺さるような気がする。
やっぱり教えあったりしないものなのかもしれない。どうせ今だけの関係なんだし、そういうのが礼儀なのかもしれない。だってすべきことはもう済んだんだもの。
わたしは彼を真っ直ぐに見ていられなかった。
「アキだよ」
「アキ? わたし、ミフユ。なんかあれだね、『アキ』と『フユ』って寒そうだけど、釣り合いが取れてる感じもするね。面白い、ペアみたい」
余計なことまで言ってしまった気がしてハッとなる。でも、こういうのは慣れてないからどこまで踏み込んでいいのかまったくわからない。なにを聞いて、なにを聞いたら聞きすぎなのか判断がつかない。知りたいと思うことはいっぱい溢れるほどあるのに。
アキが小さくため息をつくのをわたしは見逃さなかった。やっぱり聞かなければよかったと、後悔する。
彼はドライヤーを使うこともなく歩いてきて、ベッドに腰を下ろした。わたしはまだ裸で、彼もまだローブを羽織ったままだ。すぐそばに彼がいる。
アキの目が見られない……。さっきまでそこにあった体が、まるで手に届かない憧れの人のように遠く思える。なんだかひどく遠い。知らない人に戻ってしまったようだ。
いや、そんな清い関係じゃない。
でもまた触れていいのかわからない。
「どうして名前を聞こうなんて今さら思ったの?」
もう終わったあとなのに、とそのセリフには続きがあるように思えた。でもわたしには必要だった。
何故かって、息苦しくて恋しくて腕を伸ばしても名前にすがることはできなかったし、あとあと思い出した時に「あの人、誰だったっけ」とは思いたくなかった。
たった一晩の関係でも、いい思い出の箱にしまいたかったんだ。
無駄な一晩だったと思いたくなかった。これだって、すごく短い恋に違いないとそう思いたい。
「……なんとなく。聞いてなかったなぁって思ったの」
「名前も知らないのについてきたの?」
「名前も知らないのにここまで連れてきたくせに」
言葉が途切れて沈黙が静寂になる。
恐る恐るアキがわたしの髪に触れて、その指は髪を梳く。
わたし、そんなふうに大切にしてもらえる価値なんてない。知らない男にフラフラついてきちゃうくらいの、軽い女だ。少なくともアキにそう思われても仕方がない。「ちょろい女」だ。
「ミフユはいくつ?」
「春に短大卒業したばかりなの。恥ずかしいんだけど、就職上手くいかなくてニートなの。笑っちゃうでしょう? 好きな仕事に簡単につけたりしないんだね。専門程度じゃ難しいみたい。ちょっとした資格なんて、結局誰でも持ってるんだよね。ニートなんてカッコ悪いって思ってたのに、まさか自分がそうなるなんて」
アキの指は止まらず、うなじから背中までをなぞるように撫でた。あまりあると思えない筋肉が、それでも引きつる。
「俺は大学生なんだけどさ。ミフユたちはいつもこんなことしてるの?」
「こんなことってどんな?」
「だから、つまり、女だけで飲んで、誘われるの待ってるのみたいな」
ああ、なるほど。
わたしはいつも知らない男に抱かれるふしだらな女だと思われてるわけだ。
笑えない。
実際アキとそういう関係になったから否定もしづらい。でも、そう思われたくないなぁ。例え二度と会わないとしても、彼の記憶の中のわたしがそんな女だなんて嫌だなぁ。
「しないよ。確かに女同士で飲んでると誘われることが多いよ。一杯おごってくれた分、確かに少しは話もするし。でもそれだけ。楽しく話してサヨナラして、帰る時には女同士、楽しく酔って帰るの。中にはたまにお持ち帰りされていく子もいるけど、わたしは基本的には」
「基本じゃなかったら? 例外は?」
彼の、長いまつ毛が至近距離に見える。
そんなに顔を近づけられたらどうしていいかわからない。だってきっと化粧だって落ちかけているに違いないし、素肌が特別キレイなわけじゃないし。
アキは屈んでわたしにキスをした。
さっきまでのキスとはちょっと違う。感触が違うのは彼の名前を知ったからかもしれない。なんだかやわらかさと温もりがわたしだけのもののような錯覚に陥る。
「例外……。今日みたいな?」
ぼんやりと目を開いた先にまだ彼の顔があったので、今度はわたしからキスをする。やっぱり、甘い、甘いキスだ。離れるのが惜しくなる。
「こんなこと、わたし、したことないって言ったら引く? 重い女かな?」
彼はベッドにごろんと転がって、隣にやって来た。わたしは惜しげも無く晒した体を隠そうと、手近な布団をふわっと体にかけた。
「ほんとに?」
「……ほんとだよ。ごめんね、重いよね。軽い女が欲しかったんでしょう? 一晩だけだって思っていいよ、ついてきちゃったのはわたしだし」
「誘い方が強引だったから断れなかったんじゃなくて?」
アキは隠れたわたしの上に被さるようにして、わたしの顔にかかる髪を一筋、指先で払った。恥ずかしい。わたしはその手を捕まえてわたしの頬に持ってくる。大きな手のひらが頬を包む。節くれだった男の子の、わたしのすべてに触れた指を愛する。
「強引だったかも」
わたしはくすくす笑った。アキがわたしを困った顔で見る。
「みんなでお店出て『解散』ってなった時に腕をつかまれるなんて思わないじゃない? 飲んでていい雰囲気になったわけでもないし。むしろ、ほとんど話さなかったじゃない?」
「それは……」
「大丈夫だよ。嫌だったらついてこないし」
アキはさらに困った顔をしたので、わたしも喋りすぎたかもと思う。
わたしたちはやっぱり突っ込んだ話をしすぎたのかもしれないけど、そう思ってももう遅い。
「確かにすごくびっくりしたけどアキならいいかなって思ったんだよ」
「名前も知らなかったのに?」
「そうだよ、名前も知らなかったのに。軽いよね、笑える。なに、考えてたんだろう?」
「じゃあ、もうしないってこと?」
「え、なにを?」
「こういう、誘われたからしちゃうみたいなの」
「……たぶん」
彼はわたしの肌から手を離した。目と目が合う。気まずい。
「『たぶん』ってどういうことなのかな。それは『する』ってことと同義語じゃないの?」
「だって誘われた人が運命の人かもしれないじゃない?」
彼の手がまた戻ってきて、わたしをぐっと抱き寄せる。まだシャワーも浴びてないのに恥ずかしく思う。汗まみれだ。先にシャワーを浴びればよかったかもしれない。失敗した。
……そんなにきつく抱き寄せられると誤解しちゃいそうで困る。
そう、わたしは慣れていなくても彼は慣れているのかもしれないし。
「ミフユ、まだ帰れる時間?」
時計を見る。限りなく零時。
「あー、ダメかな。終電、間に合わないと思う。大丈夫だよ、先に帰って。よくわかんないけど精算しておけばいいってことだよね? それくらいのお金は持ってると思うし」
「じゃあ俺も泊まってくよ。女の子置いて帰れないから」
「女の子?」
「女の子」
さっきまでもっと深く抱きしめられていたはずなのに、なんだかすごく照れくさくて、女の子扱いされていることもなにもかも照れくさくて、アキの腕の中で小さくなる。
ああ、『たった一晩』って意外に濃厚なんだ……。もっとこう、あっさりしたものだと思っていた。
「シャワー浴びてくる……」
いってらっしゃい、とやさしい声が背中にかかる。いまならまだ戻れる。
こんなんじゃ忘れられない人になってしまう。
わたしはアキにとってどんどん重い女になってしまう。その前にこの口を閉じなければ。
シャワーを浴びる間、この二時間の間のいろんなことを思い出す。ひゃーっと思う。我ながら大胆すぎた。忘れたい。……忘れられそうにない。
もっと……。
そんな気持ちがわたしの中に湧いてきて、ひたひたと心の中を満たしていく。
「こっちにおいでよ」
うん、という意味で彼が持ち上げた布団の中の、彼の隣に滑り込む。
ダメだ、照れくさい。隠れたい。
「こっち向いて」
でも……。
どういうふうに受け止めたらいいんだろう、彼の言葉を。やわらかい、人肌の感触。そっと腕の中にしまわれてしまう。
「あのさぁ、確かに飲んでる時、いい感じにはならなかったかもしれないけど、俺はミフユのこと、いいなって思ってたんだよ。言ってしまうと」
「え?」
「じゃなきゃ連れて来たりしないでしょう。誰でもいいわけじゃないよ。ミフユの方こそ隣に座ったのにちっともこっち見ないし」
「だって……いいなって思った人が隣に座ったら逆に話せないじゃない」
「いいなって思ったの?」
「だから、そう思わないとついてこないし」
質問攻めだ。
一晩だけの関係なら質問は良くないって思ったんじゃなかったっけ? アキはそういうのは気にしないってこと?
「あー、その、ミフユさ。俺の名前、覚えてなかったじゃん。俺はミフユの名前、覚えてたよ。けっこうショックだよなぁ。名前も知らない男についてくるなよ」
「え? だって」
「言ったよ、自己紹介はじめにしたじゃん。聞いてなかったのかよ」
「ごめん……隣になったから舞い上がっちゃって」
「……だからさ、そういうこと。俺はミフユが好きだから誘ったんだけど。俺が運命の人になれる可能性はある?」
ああ、もうダメだ。こんなのはズルい。最初からそう言ってくれればよかったのに。お店でももっと積極的に話しかけてくれたり、そういうふうにしてくれたら。
「いい?」って手を繋がれて聞かれたとき、心臓が止まるかと思った。慣れていなかったし、いいかなって思う自分が信じられなかったし。
「ある」
アキは今度は大きなため息をついた。ずっと胸の奥にしまっていたものが、ため息と一緒に全部出てしまいそうな、大きな。
「よかった。一晩だけの遊び相手を探してるのかと思った」
むぎゅーと抱きしめられて、息が詰まりそうになる。違う、息が苦しいのは胸が苦しいからだ。
アキを想う心が苦しいと悲鳴をあげている。
「待って、待って。順番にお願い」
「順番……」
「ひとつめはミフユをいいなって思ったこと」
彼は親指を折った。
「そうしたら口も満足にきいてくれなかったってこと」
人差し指。
「だからヤケになって、断られるの承知でここまで連れてきちゃって」
中指。
「ミフユを好きなようにしちゃって。……ま、これはあんまり大きな声で言うことじゃないけど」
薬指。
「つまり、ミフユが好きだって告白してるのに、なかなかわかってもらえないこと」
小指。
「いまなんて?」
「告白」
「告白なの?」
「さっきからずっとそう言ってるのに、ミフユは察しが悪いな」
「……」
ガタンガタンと小さな窓から電車が走る音が聞こえる。あれが最終なのかもしれない。
わたしたちはふたりきりで、ここに閉じ込められた。
朝までの時間をふたりで過ごす。
いや、もしかしたら明日のミフユも、明後日のミフユもアキのものになるのかもしれない。
天井を見上げる。
そういう意味じゃなかったらどうしよう。どこかで解釈違いをしてたら……。
「アキの明日も明後日ももらっていいの?」
「……懐疑的だなぁ。好きだってだけじゃダメなの? 伝わらない?」
「うーん、たぶん、伝わってる」
ならいいじゃん、と彼はわたしに肩まで布団をかけた。ふわふわの布団に包まれて、彼に包まれる。安心。
「眠くなってきちゃった」
「じゃあ、少し寝なさい」
「……明るいと眠れない」
「うるさいお姫様だな、よっと」
また暗闇に戻って、寝る前のキスをする。
「おやすみなさい」
どうやらわたしたちにはまだまだ時間があるようだ。急がないでとりあえずできること、よく眠ろう。そして朝になったらちゃんと言おう。「好き」だって伝えよう。
朝、目が覚めてもアキはわたしのもので、わたしはアキのものだ。
そういう約束。
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