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僕の理想郷『ユートピア』
この雪が溶けたら新芽を持った花々が迎えてくれるのだろうか――。 どこにでも生息している木々たちでさえも双眼鏡のようなものでしか確認できない。 そんな真っ新な未開拓地がある。
やっと――
ついに僕の理想郷に辿り着いたのだ。 目の前は真っ白で何も見えない。 まるで『あの日』のようだと瞼を閉じ思い返す――
晴天になり積もっていた雪が少しではあるが溶けて道路が歩きやすくなっていた。 遊ぶには絶好の日和だ、と皆ではしゃいでいつもの山へ向かい、長時間遊べるゲームは『かくれんぼ』だという話になってどれくらい経ったのだろうか。
「あいつ、どこ行ったんだろうな?」
遠くで聞こえていた声がだんだん近くなってくる。と、同時に僕の胸の鼓動も高鳴った。 その音が皆に聞こえてしまうのではないかとソワソワしながら、『見つかりそうで見つからない』というスリルを味わっていた。それがきっと『かくれんぼ』が面白いと思える最大魅力だろう。 が、とうとう僕が隠れていた場所が分かってしまったのかもしれない。 その証拠に必死で探していた仲間の足音がうっすらと茂る木々と僕を挟んでピタッと止まった。 目の前の木々をかき分けられたら僕が這いつくばってその様子を見ていたのがバレる、と覚悟を決めて目をギュッと閉じ、そして手で耳を塞いだ――
「おい! 雪がけっこうふってきたし、あぶないから帰ろうぜ? あいつもとっくにかくれんぼなんかやめて帰ってるだろ」
と一学年上でリーダー的存在のジンが言っていたらしい。その一言で残りの皆も「うん、そうだね。かえろうか」となんの躊躇もなく踵を返して山を降りていくことなど知るよしもなく――
――ずいぶんと長い『かくれんぼ』だ、と思った時には手が痛いのを通り越し何も感じなくなっていた。 瞼をゆっくり開くと景色というキャンバスは雪という巨大な自然界の消しゴムで真っ白に消されていた。 本当に何も見えないのだ。 隠れることに必死になりすぎて、天候がこんなに変わっていることに全く気が付かなかった。 一緒に遊んでいた仲間は無事だろうかという気持ちと『かくれんぼ』がまだ続いているのか、それとも終わっているのかさえも分からない状況下におかれ、ただただ涙をこぼし塞ぎ込んでいた。 強気な僕が初めて弱音を吐いたのもその日だった。
「だれもぼくのことをみつけてくれなかったどうしよう……」
言葉を声で発すると余計に現実味を帯びて泣き崩れ、叫んだ。 と、そのとき僕の背中を大きな手と腕が包み込んだ。
「大知、探してたんだぞ! 無事でよかった。早く家に帰って身体を温めよう」
いつも僕を安心させてくれるその心地よい声は不安を一気にかき消してくれた。
「しんぱいをかけてごめんなさい。 ぼくをみつけだしてくれてありがとう」
「当たり前だろ! お前は自慢の息子だよ。 だから、何があったってそばに居るぞ。 約束だ」
「うん、ありがとう!」
「そうだ、いいものをあげるよ。 これはずっと父さんが大事にしている時計で宝物でもあるんだ。いつもそばに居る証として渡しておくよ」
そういって父さんは腕にしていた時計を丁寧に外し、僕の腕に「やっぱりぶかぶかだな」と笑いながらはめてくれた。
――腕を軽く振ってスーツの袖をあげ、時刻を確認した。 父さんから譲り受けた時計は気が付けば違和感なく腕に馴染んでいた。 腕時計を見るたびにまるで父さんが本当に隣にいて、僕を支えてくれているように思えた。 だから何があっても大丈夫、そう大丈夫だ――
それから間もなくして、バンよりもむしろドーンという爆発音に近いような音がオフィス中に響き渡ることとなった。 机にテロをしかけたのは小川部長だ。 『パワハラ悪魔』という隠語で呼ばれていて、ビジネスドラマの悪役の人物像を切り取ってそのまま現実の世界に貼り付けたような奴だ。上層部には天使のような笑みを浮べ、同等以下の社員には悪魔のように罵倒しては責め立てる。 確実にいえることは自ら好んで部長と接している社員なんてどこを探してもいないということだろう。 だが、奇妙なことにそいつの周りにはいつも沢山の社員が群がっている。 そして、逆らった社員は数日後に何故か地方への転勤勧告が出され本社から姿を消していくのだ。 絶対に完成できっこないジグソーパズルをやらされていると誰もが分かってはいるが、今の生活を守りぬくために沈黙を貫いていた。 ちなみに机にテロを仕掛けた理由はというと、どうやら重要な企業同士の契約案件での些細なミスでは収まらない企業最大級の赤字を招き、さらには株をも暴落させる原因になりかねない事件を部長が起こしたという。 それを穏便に解決してプラスにすることより、どのように部長が事件を『事件で無かった』ことにするのか、という奇怪で不穏な空気が漂っていた。 そんな状況なのに、だ。 初めてといっても過言ではない。 その『パワハラ悪魔』がめずらしく部下である僕らに天使のような笑みを浮べ、ある一人の社員を名指ししたのだから現場は凍り付いた。
「立花、よく頑張ったな! それでこそうちの立派な社員の鏡だ」
そういってポンっと肩を軽く叩かれ、手渡された書類の所々に僕の名前が載っていたのだけは分かった。 内容を確認する間もなく書類を持っていた僕の腕を『パワハラ悪魔』は力強く握り膝の位置まで正した。
「そう、君がいつもお守りしている腕時計……。 今回はそれすらもご利益がなかったかな。 分かるだろ? 君の時計は誰が見ても古すぎる。 全てには寿命があるんだよ。 それを新調していたら君の寿命も変わったかもしれない……なんてな?」
あざとい笑い声がオフィス中に響き渡り一時間もしないうちに僕の机は誰の机でもなくなった。 その場を去る時も当然だが誰一人として声をかけてくれる人はいなかった。まるで鬼に見つかっているのに終わらない『かくれんぼ』をさせられているような気分だったーー
いつも零下の冬を迎えるであろう僕の理想郷は無情にも雪がしんしんと降りしきっている。 長い旅路を経て辿り着いたが故に、深く積る雪を背にし、澱んだ空をぼんやり眺めていた。 天からはゆっくりと、そして一定のリズムで落ちてくる白くふわふわな『綿あめ』、小さいだけではなく全く味もしない。 美味しくも不味くもない。 だから、それを絶対に味わいたくはないのだが僕の意に反して強制的にそれは口の中で味見をさせようと入り込むので飲み込まざるを得なかった。 これを繰り返し何時間ぐらい経ったのだろうか――
今でこそ安堵しているが、理想郷に辿り着くには僕の住む街から車で二時間と三十七分かかる駐車場に停め、そこから一万歩ぐらい歩く必要があった。 何故こんな事細かに覚えているのか不思議に思う人が多いだろう。 が、僕にとっては普通の感覚でしかない。 というのも、僕は社会の中では落ちこぼれだし、出来も悪い。さらに不真面目ときたものだからこれぐらいやらないと世間一般の思考回路や頭脳に追い付けない。
実をいうと駐車場に着いた時に自分がこれからしようとしていることは本当に正しいことなのか証明したいという衝動に駆られた。 だからだろうか、男手一つで僕をここまで育ててくれて一番信頼できる大好きな父さんを思い出し、ふと形見でもあるねじ巻き式の腕時計の時刻を確認したくなった。 それが自分の好きな『三』と『六』の数字を通り越して三十七分になっていたから、これからしようとしていることはやはり正しいと思えたのだ。 僕は永遠に時間に囚われ続けるのかもしれない。 ちなみ何故『三』と『六』の数字にこだわりがあるのかについてはちゃんと根拠がある。が、その話は僕が時間に囚われなくなる瞬間がきたら話せると祈ろう……。
もし二時間三十六分で到着していたら、また違う未来が待っていたのかもしれない――
その思考を打ち消すように僕は道とは到底いえそうにない、単なる真っ白な地面をザクッザクッと音だけを響かせながら目的地までひたすら前進した。 だた、『腕時計』にまで嫌われたくないから、せめて目的地に辿り着くまではきちんと時間を厳守すべきだと思い、何度も父さんの腕時間を確認していた。 が、その道中で父さんの形見が想像を絶する寒さからか生き絶えた――。
それから「いち、に、さん、し……」と自分の口で数をかぞえ理想郷に着いた歩数が一万だった。
「はあ……」とため息交じりの声を発すると、さらにここはいつも僕が生活する街とは違うことに気付かされる。 いつも街を歩いていた時は白い霧状のものが急速で、且つ不規則なリズムで口から出てきていたのを思い出した。 それが今は起きていない。だが、僕の見間違いかもしれないと思い再び確認をする。
「あいうえおー……」と語尾の『お』だけを気持ち少しだけ長く発してみた。 が、白い霧状のものが僕の口からはやはり出ては来ない。ふと、何処かの大学の論文で南極は空気が澄んでいるため寒くても白い息を確認することは出来ないと読んだことを思い出した。 けれど、ここは南極ではない――。 強いて言うなら、まるで雪で沁みる寒さが自分の身体と一体化したような感じを味わえる理想郷だ。 本当に『ウツクシキスバラシイセカイ』だと生まれて初めて思えた瞬間かもしれない。 急に張り詰めていた糸が緩み、何十年も忘れていた『笑うこと』を急に思い出したかのように自然と笑みがこぼれた。 と同時に父さんが他界してから睡眠で悩まされていたのが嘘かのように心地よい眠気が襲ってきた。
「おやすみ――」
ああ、本当にこの世界に生まれてきて良かった。ぼやける視界に虹が見えたような気がする。
そうだ、また『かくれんぼ』をしようか。 この眠りから目覚めたら奇跡のダイヤモンドダストが目の前に広がっていたらいいな。 光輝くセカイを僕は探しているから――
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