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 無限に広がる黒の空間に、非の打ちどころのない満月が浮かぶ。 淡々と歩みを進めるホクアースは、それを一度でさえ見上げなかった。 彼の豊富な知識と経験を以てすれば、 暗闇に包まれた山岳への恐怖感など無いに等しい。 やがて彼は、普通の人なら六時間かかるところを、 その半分も費やさずに山頂へ辿り着いた。  そこには、傷だらけの小屋が一軒、自然の物寂しさを知ったように佇んでいる。 入口の扉は無く、八割方腐敗した床には蜘蛛が這う。 ホクアースは古びた住処に戻り、リュックサックを下ろした。 そして、中から取り出したコッペパンに(かぶ)り付く。 嚙み千切った際にパンくずが幾らか零れ落ちたが、 気にする素振りは全く見せない。  二日ぶりの食事を瞬く間に平らげると、 ホクアースは小屋の横にある水たまりを両手で掬い取り、豪快に顔を洗い流す。 水質が濁っていようがいまいが、 激動の毎日を駆け抜ける彼には他愛もないことだった。 久々に生きている実感がし、吐息が漏れる。 「……ふぅ。始めるとするか」 コッペパンの次は、釣り竿をリュックサックから取り出した。 彼は何度か素振りをした後、それを勢いよく投げ出す。 際限なく伸びる釣り糸は、星に負けず劣らずの煌めきで夜空を駆け行き、 終いには餌の付いていないかぎ針が地平線に潜った。
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