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1.煮豚とケーキで祝う夜
習慣というのは恐ろしい。
答えがないのはわかっているのに、つい口から言葉が出てしまうのだから。
「ただいまー」
誰もいない家の扉を開けると、出し汁の香りが漂ってくる。
「あ、おかえりなさーい!」
一瞬、自分の頭がおかしくなったのかと思った。
泥棒!?
いや待て、泥棒はおかえりなさいなんて言わないだろ?
仰天して玄関で固まっていると、三和土には、揃えたスニーカーが一足並んでいた。
廊下の奥からエプロン姿の小柄な男が顔を出す。
ぱたぱたと軽い足音がして、目の前で優し気な顔がにこっと微笑んだ。
「こんばんは。お料理代行サービス『心』の柳瀬一路です。今日からよろしくお願いします」
さらさらの黒髪が揺れて、きれいなお辞儀をされた。
「あ、え? ⋯⋯料理?」
「はい、お母様から承っております。ご連絡いってなかったでしょうか? 本来ならお客様がいらっしゃる時にお部屋に伺うお約束なんですが、今回はお母様のご希望で、マンションの管理人さんに鍵を開けてもらいました」
「そ、そうなんですか⋯⋯? えっと、よろしくお願いします。さ、佐原享史です」
もう一度微笑まれて、思わずどもってしまう。
そういえば、夕食サービス頼んでおいたからと電話で言ってたな。あれ、今日からだったのか。
「もうすぐお食事できますからね。お荷物置いたら、台所に来ていただけますか?」
頷いて、慌てて部屋にカバンを置きに行く。
スマホで確認すれば、母親から山ほどのメッセージが入っていた。今日はバタバタしていてろくに見ていなかったんだ。
制服から部屋着に着替えて台所に向かう。
自分の他に、家に人がいる気配が久々で、何だかそわそわと落ち着かない。
台所に入った途端、出し汁の香りが強くなる。
普段火の気のない台所は、コトコトいう鍋や茹でられた青菜の蒸気で満ちていた。暖房も入れないのに部屋が暖かいなんて久しぶりだ。
ダイニングテーブルの上を見て、思わず「おっ!」と声をあげた。その声が聞こえたのか、柳瀬さんはふふっと笑う。
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