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「私、あなたと同じくらいの頃に同級生の彼氏がいたんだ。優って名前で、漢字で書くと優しいの優なんだけど、名前に嘘をつかないくらい、本当に優しかったの。いつでも私の側にいてくれるし、困ったときは助けてくれた。ちょっとお節介な部分はあったけど、私は彼のことが大好きで、ずっと一緒にいたいし、このまま結婚してもいいかなって思っていたの」  でもね。鮮明に聞こえる雨の音に混じらせて、女性は小さい声で囁くように言った。 「高校二年生のとき、あれは忘れもしない、今日みたいな雨が降った日のことだった。私、その日はちょっとしたことで親と喧嘩をしちゃったから不機嫌だったの。その調子のまま学校に行って、授業も全部寝て過ごして。お昼も食べずにいたら、優くんが私のことを心配して声をかけてくれたの。大丈夫か、調子悪いのかって。でも、そんな優くんの優しさが逆にトゲになって、心に向かってズタズタと差し込んできたの。お母さんと喧嘩したのも、私が原因だった。優くんはまるでそのことを見透かしたような声で、私に優しくしたの。その声聞いていたら、自分が惨めになっちゃって。それで、うるさいって優くんのことを突き放しちゃったの」  この街の空が涙を流すように、僕の隣にいる女性も頬を濡らしていく。悲しみが、悲しみを連鎖していく。 「そんなこと言われたら、優くんも怒っちゃうよね。その日はそれっきり話さずに、顔も合わさずに別れたの。でも、まさかそれが最後の会話になるなんて、思いもしなかった」  物語は悲しみの果てに絶望へと導かれていく。 「最後の会話って。もしかして」  僕は優くんから目の光が奪われていく瞬間の映像が脳裏に浮かんできて、声が震えてしまう。 「優くんはその日の放課後、一人で帰っているところを自転車ではねられて、頭を強く打って亡くなったの。お互い、傘をさしていたから見えなかったみたい。相手もヘルメットをしていなくて、優くんと同じ死因で亡くなっちゃったの。ほんの一瞬で、二つの命が旅立ってしまったの」  ズキンと心臓を刺すような衝撃が僕を襲って、胸が痛くなる。悲痛な想いを語った女性は、ハンカチで目を拭い、「ごめんね、変な話をしちゃって」と僕に謝る。 「なんだかあなたのことを見て、おまけに雨も降っているから、優くんのことを思い出しちゃって。私、優くんのことだけは忘れることができないの。他の記憶は消えていくのに、優くんが死んじゃったことだけは鮮明に覚えている自分がいるの。消したくても消えない記憶があるって、狂っちゃうくらい辛くて」  そして、女性は僕の眼をはっきりと見て言う。 「どうしてあのとき、あんなに冷たく当たっちゃったんだろうって、ずっと後悔しているの。あのとき私が優くんの優しさに応えていたら、優くん、死なずに済んだかもしれないのに」  後悔。僕は今、目の前にいる女性と同じ後悔をしている。いつも僕のそばにいてくれる存在を無下にして、自分のことばかり考えてしまう。そして、大切なひとを失ったときに初めて気づく。  どうしてもっと優しくできなかったのかな。 「ごめんなさい。初対面の人にお話しすることじゃなかったよね。でも、あなたみたいな若い人に、一つだけ言っておきたいことがあるの。ごめんね、それだけ言わせてもらうね」  女性はハンカチで涙を優しく拭い、鼻をすすって呼吸を整える。仕草のどれもがもの寂しく、僕は思わず目を逸らす。 「一つだけ」  先ほどまで降っていた雨は気づかぬうちに弱まっていて、今は僕の隣で大事な言葉を放とうとしている女性の声がはっきりと聞こえる。 「それは、後悔のない人生を歩んでほしいの」  後悔のない人生。僕は振り返る。そしてやはり胸が痛む。向日葵のように咲き誇る笑顔を枯らせてはいけないのに、僕は今日、へし折るような行為をしてしまった。 「分かりました」  僕はゆっくりと頷く。女性は口を緩ませて、また空を見る。 「雨、止んだね」  いつの間にか降り頻る涙が止まり、びしょびしょになったアスファルトは、電光によってキラキラと輝くを放っている。隠れていた鳥たちが再び羽を伸ばして飛んでいく。僕も女性も休憩所から出て、空を見上げる。 「今日はありがとう。私の話なんて聞いてもらっちゃって。ちょっとだけスッキリしたかも」  女性は僕を見てニッコリと笑う。 「いえ、それは良かったです」  たじろぐ僕に、女性は「またどこかで会えたらいいね」と言って礼をして、左側へと歩いていった。不思議な空間で出会った女性は、僕の心に溜まっていた愚かさを晴らし、大切な人の存在に気がつかせてくれた。僕は女性の背中に向かって、「ありがとうございました」と頭を下げた。  雨も止み、家路を辿ろうといつもの帰る道へと戻ろうとした。そのときだった。 「あれ、蓮じゃん」  僕の目の前に、今一番会いたい人が現れた。突然の再会に、胸の内がドクドクと音を立て、独特な感情を湧き上がらせる。 「蓮は雨、大丈夫だったの?」  僕と同じ演劇部の同級生であり、僕の彼女でもある向日葵は、もう悲しんでいる様子ではなかった。 「あのさ、向日葵」  後悔なんてしたくない。君を失いたくはない。僕はゆっくりと歩み、向日葵に近づいた。 「あの、さっきは強い口調で言っちゃってごめん。その、ムキになっちゃって感情的になっちゃったんだ。だから……」  すると、向日葵は僕が望む笑顔を見せる。 「あれは、私も悪かったよ。きっと、お互い一生懸命に取り組んでいるからさ、時にぶつかっちゃうこともあるんだよね。でも、やっぱり蓮と一緒にいないと寂しい気持ちが勝っちゃって。私、蓮のこと好きだからさ」  向日葵も僕も、お互いに後悔したくない気持ちをぶつけ合って、目が潤んでしまう。 「あの、一緒に帰ろうか、向日葵」 「うん、そうだね」  僕は子供みたいに小さな手を握る。向日葵もそれに応じる。 「それにしても、ちょっと肌寒いね」  夏を忘れさせるような涼しい風が僕らに向かって吹く。 「そうだね」  すると、向日葵が立ち止まって、その小さな手で上空を指した。 「あ、蓮。あそこ!」  僕は向日葵が指差す方向に視線を移す。そこには、七色の橋が雨上がりの空を彩っていた。 「虹だよ!」  雨のち晴れ、後に虹。僕らは雨のように傷つけ合って悲しみ、晴れのように愛し合って喜び合い、そして虹のようにカラフルな感情を持ちながら、繋がれた手を離さずに歩んでいく。
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