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 夏の爽やかな晴天がいつの間にか消え失せて、分厚い積乱雲がこの街の上空を覆ったかと思えば、無情の雨粒が無数に降り注ぎ、一気に街を濡らしていく。どこか遠くで雷鳴が響いている。これはきっとゲリラ豪雨だろうか。僕は頭の中で推測しながら、急いで雨宿りできる場所を探す。傘をさしていても、所詮は折りたたみ傘だから面積は小さく、多方から槍のように雨が差し込んでくる。  今日は本当に嫌な日になってしまった。  鬼のように眉を寄せて怒る僕の声が教室中に響く。その瞬間、君はボロボロと泣いた。見たくもない感情を飲み込んだせいで、僕は思わず逃げ出してしまった。  やり場のない気持ちを吐き出したくて、ずぶ濡れになった足で石ころを蹴飛ばす。それがコロコロと転がって、排水溝へと落ちていく。それでも、虚しさが募っていくだけだった。 「どこかないかな」  途方に暮れながら歩いていると、前方にこの街の中では広い公園が見えてきた。草木によって茂みに覆われているその場所を見て、僕の脳裏に一つの記憶が蘇ってくる。 「あそこに屋根付きの休憩所があった気がする」  アスファルトに沈んだ水溜りに気をつけながら、僕は目的地まで走り、やがて公園の端っこに潜むように存在する、老朽化して木々が腐敗し始めている屋根付きの休憩所にたどり着いた。はあ、はあと息を切らしながら、僕はようやく雨から身を守ることができる場所で一息つく。 「あの、大丈夫ですか?」  ふと、隣から声が聞こえてきたので、僕はその方向を見て咄嗟に答える。 「あ、はい。大丈夫です」  無我夢中で気がつかなかったが、そこには先客がいたようで、その女性は僕のことを心配してくれているようだった。上から下へ。一通りスクロールするように見て、思わず胸が高鳴ってしまった。白い肌が剥き出しになっている細い手は、僕が好きな彼女の幼い手にはない色気が醸し出されている。それに、まるでテレビに映る女優さんのような綺麗な顔立ちをしている。こんなべっぴんさんと二人きりでいる状況を、平常心でやり過ごせるわけがない。  僕は気づかれないように、小さく息を吐く。 「雨、すごいですね」  その女性は、ずっと降り注ぐ雨を見ている。 「そう、ですね」  緊張まじりの僕の声が響く。 「学生さんですか?」 「え、ええ。そうですね」 「高校生?」 「あ、はい。そうです」 「高校生か、懐かしいなあ」  何か淡くてみずみずしい記憶を辿るように、女性は遠くを見つめて笑みを作る。 「私ね、高校生のときは写真部だったんだ。今みたいにスマホもないから、綺麗な写真を撮ることができるのは一眼レフくらいだったの。でも、それはそれで味があって好きだったんだ。自分が収めたいと願う瞬間にシャッターを切ると、パシャって音が鳴って、一瞬時が止まったような気分になるの」  僕の目の前にいる女性は、青春時代を思い出して、また微笑む。僕はいちいちその仕草にドキドキしてしまって、自分が情けなくなった。 「あなたは何部?」  その女性が僕に視線を移す。 「えっと、演劇部です」 「演劇部。じゃあ、学園祭とかでみんなの前で演技したりするんだ」 「まあ、そうですね」 「すごいなあ。私、人前で何かするって緊張しちゃってできないから、尊敬しちゃう」 「あ、ありがとうございます」  女性は蜘蛛の糸でゆっくりと僕のことをたぐり寄せるように、少しずつ、少しずつ僕との距離を縮めていく。その度にゆらゆらとハートが揺れ、息苦しくなってしまう。空は誰もが不幸になり得るほど真っ暗なのに、今の僕の周りは光り輝くヘヴンのようだった。 「高校生活か。私、卒業してから十年も経つから、だんだんと色褪せちゃって。毎日毎日何かがあって、嬉しかったり悲しかったり、時には怒ったりしたのに、みんな白いモヤがかかってきて記憶が曖昧になってしまう。最近思うんだ。人間って寂しい生き物だなって」  女性の唇が一瞬塞がれ、再び開く。 「ただ一つだけ、どうしても忘れられない記憶があるんだ」  先ほどまで浮かべていた笑みはスッと消え、今はこの雨雲のように暗い表情になっている。ザアザア、ザアザアと耳を刺激するノイズを、女性は耳を澄ませながら聞いているのかもしれない。少し黙って、二人してしとど濡れるこの街を見つめている。  そして女性は、遠くを見たままゆっくりと口を開いた。
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