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立ち込める黒い雲、冷たい風が足元から這い上がり、揶揄うようにスカートを巻き上げて髪を乱した。
それはゴロゴロと鳴り響いて、撫でられて喜ぶ猫のように私の頭上に雨をもたらした。
慌てて建物に駆け込む制服姿の女子高生や、着飾ったご婦人、スーツ姿のサラリーマン、部活帰りの中学生、自転車の後ろに子供を座らせた母親が、子供の頭にタオルを掛けて急いで自転車をこぎ始める。
誰もが慌てる突然の雷鳴轟く通り雨。
気分屋な天気に振り回されて右往左往する人。
軒先に出していた野菜をしまう八百屋さんや、雨宿りをして困ったように空と腕時計を行ったり来たりする瞳。
私はひとり、でもひとりじゃない帰り道を雷鳴を連れて鎮守の森へ。
吹き荒れる風はゴーゴー、ビュゥビュゥと唸り、背中を押して「急げ、早く」と急かしてはその場所に私を誘う。
『約束、待ッテタ、ズット、待ッテタ』
私の周りをグルグルと周り、ヒュゥッと消えるつむじ風。
早く、早く、急いで、早く。
だって今日は、待ちに待った約束の日。
誰も信じてはくれない、信じてくれる人はいない。
でも、待っていてくれるひとがいる。
私は今日、そのひとの妻になる。
家族はいない、引き取ってくれた親戚が欲しかったのは、私を引き取る事で手に入る本家の土地、お金、様々な権利。
私が早くいなくなる事を願ってる。
今から十年前、六歳の時に鎮守の森で出会ったのは、真っ白な龍の神様。
人の世が辛いのなら嫁に来るか?
そう言ってくれた神様は、遠くない未来、力の衰えた自分は代替わりをする。
そうしたら、息子の嫁になって欲しいと私に言った。
当時六歳の私が十六歳になる日、次代の龍神が生を受ける。
使いの者が迎えに行くから、ここへおいで。
約束が叶えられる事を心待ちにしているよ。
真っ白な龍の神様、父神と交わした約束が成就する日が今日だ。
目隠しのように町を白く煙らせて、人を往来から排除した強い雨。
誰にも気づかれず、気にもされず、何度も足を踏み入れた鎮守の森は、夏の生に満ちて生き生きとしたエネルギーが溢れている。
優しく強く、朗らかな父神から生まれる新たな龍。
夫となるその神様はどんな姿で、どんな声で、どんな風に私を呼んでくれるのだろう。
私は、人の世を捨てるこの日を十年の間ずっと待っていた。
草葉の陰で息を潜めるように私を覗いている気配がする。
小さな生き物たちも、現世の者ではない住人たちも、観察し、興味を示して、見知った者は身体に触れる。
ふと見た手は、見えるはずのない向こう側を覗かせていた。
ひらひらと返しているうちに私の手は私には見えなくなる。
足元も同じだ。
歩けるのに、見えなくなっていく肉体だった部分のパーツ。
私は捨てるのだ。
未練のないこの世界を。
嬉しい、この日を待っていたのだから。
森の奥深くには清い水の湧く滝がある。
流れ落ちる水の美しさも、滔々と湧き出る水も、そのどれもが愛しいと私を包み込み、受け入れてくれる。
制服を脱ぎ捨て、生まれ落ちた姿で冷たい水に足を浸し、どんどん深い方へと進み行く。
名を呼び、抱きしめてくれるのは、あと僅かで理の中へと還る父神。
待っていたと喜び、最後の力を私の身体に注ぎ込む。
ひとではないものへと存在を変え、生まれ出る新たな神の妻となる私への餞として最後の力を分け与えてくれた。
涙は水に溶けてひとつになった。
頭上を覆っていた雲は裂け、風に流され青と橙のグラデーションに染まる空に主役を明け渡した。
茜色の空を映した水面から飛び立ったのは、紅を纏った美しい龍神。
私の夫となる、美しい神。
雷鳴は新たな神の誕生を祝うように、いつまでも鳴り続けていた。
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