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 きょう、僕たちはいつものカフェで別れる。その店は渋谷の道玄坂沿いにあって、絶えない人通りと行きかう車の群れが見える窓際の明るい席に座っていて、ホルダーカップのコーヒーがイラストになってしまうみたいに、僕たちは所在なさげにスマホを弄っていた。  傍目には、相互ネットサーフィン中のデート。語らいのない乾いた逢瀬。  しかし、画面からあふれ出す情報は、僕の動揺した頭には入ってこなかった。  僕の上目づかいの視線の先で、ミルクティ色のショートヘアがふわりと揺れた。 「じゃあね。あ、これ、要らなくなったからあげる」  何もなかった僕たちの終わりに、紺野美帆は自分のスマートフォンをテーブルに置いた。 「要らないって、何が?」  てっきり、以前、彼女のプレゼントしたマフラーか何かが返品されるのかと思って僕は身構えた。もう春も終わる頃だったから。  しかし彼女は手元のショルダーバッグから、品物を取り出す気配はなかった。 「スマホよ。わたしにはもう必要ないからあなたにあげる。だいじょうぶよ、個人情報は全部削除したし、変てこりんなアプリも消去したし、解約もした。今月分の残りの通信料はサービス。キミ、自由に使っていいよ」  今の時代、スマホが要らないなんて、アタマおかしいんじゃないのか。まさか妙なコト考えていて、飛び込むとか飛び降りを考えてないよな。置き去りにされたスマホに遺書があったなんて、笑い話にもならないぞ。 「あはは」美帆は僕の心を読んだかのように、口元をほころばせた。「自殺なんてしないから。そういうのって、わたしさ、苦手なんだ」 「そういうのって、死ぬことかい?」 「違うよ。スマホとかSNSとか、情報に縛られてるのって、我慢できない。だから、そういうのがない世界に行きたいんだ。だけど、たーくんはさ、スマホがないと生きていけないでしょ」 「そりゃ、大事なツールだからね。だけど、寝てる時と風呂はスイッチ切ってる。世界中、どこでもネットワークでつながってるんだぜ。逃れることはできない。スイッチを切ってもまた入れるから、同じことなんだ」 「そうだね。わたしとあなたは、やっぱり、いっしょになれないよ。さようなら、たーくん」    会うたびに気をつかった言葉選び。それは互いが傷つかないトークであり、共通の話題を盛り上げることであり・・・僕は、本当に彼女が好きなのだろうか。  ただ、彼女が数分後には立ち去ってしまうであろう現実。虚無的な寂しさを受け入れたのあとは、明日からのいつもの仕事が待っている。それだけのことだ。 「もう会えない?」  僕はかすかな望みを口にした。  彼女は微笑んだ。 「もしかしたら、夏になったら連絡するかも」 「SNSを使って? それともケータイ?」 「どうして、そうなっちゃうかなあ・・・」美帆は困ったように顔をしかめた。「じゃあ、行くね。今までありがとう。見送るなら、ここでして」  彼女はテーブルから離れた。  僕は座ったまま、ジーンズにカットソー姿のあとを追った。店内の植え込みの陰に彼女が隠れ、すぐにドアが開き、外へ出て行く直前に振り向いた。  いつもと変わらない笑顔を僕に向け、唇の先を動かした。  バイバイ。  そのまま彼女は人混みに消えた。  僕は見えなくなった後ろ姿に向かって、小さくつぶやいた。  さよなら。    
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