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 わたし  母は本日二度目の咆哮をあげた。それは大地を揺るがすように強く激しいものだった。床からの振動がわたしの骨まで伝わり、脊髄まで辿り着いたら、わたしの体は行動する準備を始める。わたしは二階の母の寝室へ向かった。開けっ放しのドアの隙間から流し目で睨むように覗くと、母は膝立ちの状態で上を見上げていた。母が、痛いと叫んだからわたしは走って駆けつけたような雰囲気を醸しておいて中へ入った。 「落ち着いて、ほら深呼吸」  と言っては母の小さくて弱そうな背中を一応さすってやった。汗がべっとりとついていたのでタオルを持ってくることにした。母はわたしが階段を往復する間もまだ叫んでいた。最近お隣さんに、大声で叫ぶのはやめてくれとくどく忠告されたばっかりだから、これまた怒られてしまうなと思う。わたしはどうすることもできないのだけれど。  上半身全体の汗を一通り拭いてあげると、気持ち良くなったのかその場で体育座りをしては寝てしまった。わたしは近くにあった薄い膝掛けをそっとかけてあげた。表情は険しい。男の名を繰り返して言っている母は、何かにうなされていた。  わたしも昼食後の眠気に襲われてしまい冷たい床に倒れ込んで体の電源を切りたくなったが、残念ながらいくつかの家事が残っていたのでそういうわけにもいかなかった。部屋掃除、洗濯物を取り込む、畳む、などなど。まずは幾分楽な部屋掃除からやってしまおうと決めた。母を起こしてしまうかもしれないが、それより優先すべきことだと判断した。  わたしは掃除機がゴミを吸う時の音が非常に好きなのだ。塵、埃はもちろん無駄に湧いてくる雑念までことごとく吸ってくれているのがわかる豪快さがいい。ほとんどの人は騒音に聞こえるだろうけれど、わたしにとっては音楽と一緒だった。サンバとかダンスミュージックと同じくらいテンションがあがるのだ。そうして気分が良くなると掃除のスピードがぐんと向上する。わたしは掃除ロボットとなる。今日は雲ひとつない青空だからさらにやる気が出たのだった。  汚れを求めて父の部屋に入った。そこは小さなテーブル以外に家具は置いていない陳腐なものだ。個人の部屋の中で一番広いから、より注目できるようにしておいたのだといつかの母が言っていた。ど真ん中にポツンと存在しているテーブルの上には父の写真が置いてある。正確に言うと、それは三年前に旅行に行った時の写真を加工して大きくした家族写真の一部だった。  そう、父は二年前に転勤して海外に行ったっきり今まで帰ってきていないのだ。別に死んだかなんてわからないし、生きている可能性も十分あるけれど、もうこの世にいないかもしれない理由が一つあった。一度連絡が来たのだ。電話はできないらしく手紙という何とも古典的な方法を用いてあるメッセージを受け取った。「来年の八月九日には絶対帰ってくるからそれまで待っていてくれ」というものだった。その日を指定した意図はわからなかったが、わたしたちは大いに喜んだ。そして、今日は十四日であった。  これで父が死んだと言う事実が確定したとも言い切れないけれど、希望はあっさりと断ち切られた。それから母はあの調子なのだ。つい一週間前は子供のようにワクワクしながら父を待ちわびていたのに、時間の過ぎ方は本当に人それぞれだ。  わたしはこの部屋を丁寧に掃除した後、写真の前に正座して手を合わせ願った。生きていてください、そして母を救ってあげてください。  どうにかわたしの人生を楽に過ごさせてほしい。単なる私的な野望だけれど信じていれば必ず奇跡は起こるはずとわたし自身をうまく納得させた。  長い間集中していると時間は恐ろしいほど早く進んだ。意識を取り戻すと、わたしはこのくだらない世界の住人だということを再び理解し、掃除機を片付けようとドアの前に行った。すると、誰かによってそのドアはわたし側に押された。行為者は母であった。  母は長くてボサボサで寝癖のついた髪を綺麗に靡かせながらテーブルへ向かっていった。いつもはさっきのわたしのように手を合わせて願うのだけれど、今日は額縁を両手で持って目の位置にセットし、父の顔をずっと眺めていた。わたしは母が狐のように見えた。何かを企んでいるようであった。  予想は当たった。母は額縁から写真を抜いて両端を摘んだ。次の刹那、母は左手を真下へおろして写真を引き裂いた。元の面影がなくなるまでビリビリに破った。粉々にして床に散らばったそれらを今度は踏みまくった。足に引っ付こうが構わない、早くこいつを記憶から消してくれ、そういう心情なのだろう。今日は怒りの気持ちが強い日だったというわけだ。父を裏切った男として認識してしまっている母はようやく足を止めた。 「あなたは、あなたは私のことを何も心配してないじゃない。ばか、ばか」  声がぶるぶる震えていた。泣いているのと遜色はなかった。  本当に今の母は精神が不安定だ。心の揺れが一切おさまらない。起爆剤がそこかしこに存在している。だからわたしは無心で母を見るようにしていた。どんなことをしようがわたしには関係ない、どうぞご勝手に、と。今日も母を無視してこの部屋を出るのだった。  洗濯物を干しているところへ移動しようとしたら、いつの間にか玄関に向かっていた。わたしの体は誰かに操作されたように動くことがある。しなければいけない仕事があって自由を強制された時、どうしようもなくその仕事を放棄したくなるのだ。わたしはお気に入りのスニーカーを履いて目指す場所もなく歩いていった。化粧をしようとかせめてワンピースにでも着替えておこうとか散々迷った結果、わたしは部屋着として着ている上下セットのジャージのまますっぴんで行くことにした。  綺麗な緑色の雑草、いろんな形の雲が見えて、うるさいほどの虫の声、民家の生活音が耳に入るとわたしは夏を感じる。思考を放棄して歩いていると夏のいいところがよく知れるからわたしは夏の散歩が好きなのだ。そもそも散歩が好きなのだ。新たな視点でものを観察できたときに、わたしが求める生きがいの真髄を見た気分になる。  前から小さな子供が向かってくる。 「おかーさん、バッタ、バッタ」  子供はバッタと同じようにジャンプしながら追いかけていた。何度も両手を使って覆い被せようとするが、どうにも逃げていく。わたしは「頑張れ」と囁いて歩行者用の道の白線の上を歩いた。 「こら、前にお姉さんがいるでしょ。危ないじゃない」  お母さんがやってきたようだ。 「まったくごめんなさいね。うちの息子が」 「大丈夫ですよ、わたしが歩いているところにバッタが跳んできたのが悪いんです」 「あら、そう。ふふ、ずいぶん優しい子で助かったわ」  子供はバッタの背中の方を摘んで、見せつけてきた。わたしは子供の目線と同じ高さになるように中腰になった。 「ほら、おっきいバッタ。かっこいいでしょ」 「君、捕まえられたの。すごいじゃん」 「えへへ」  お母さんは「謝りなさい、ほら」と言い、子供はごめんなさいと無邪気に謝った。 「すみませんね」 「おねーさんじゃーねー。おっきなクワガタ見つけたら僕にも教えてね」  子供は思いっきり手を振ってくれたので、わたしも振り返しておいた。わたしが夏が好きな要因はこういう素敵な会話にもあるのかもしれない。  道をずっとまっすぐに進んでいくと、墓場が見えてきた。住宅街の中にこじんまりとしている貧弱な墓場ではなく、あくまで土地として隔離され故人の栄光の数々がくっきりと輝いているちゃんとした墓場だった。兎にも角にもそこはわたしにとって本当に大事な場所であった。今のわたしの一部を構成するものはそこにある特別な思いがほとんどだと言ってもいいくらいだった。  入り口に四人の子供たちがいた。彼らは騒いでいた。「ここで幽霊出るらしいぜ」「まじ?」「じゃあさ、今日の夜またここきて肝試ししよ」「いいじゃん、やろ」。わたしは四人にわざとぶつかった。彼らはわたしを語彙力のかけらもない言葉で罵倒し、つくつくぼうしの鳴き声が途切れた後、帰っていった。憤慨は墓場に入った途端、消えた。  入り組んだ道を進んでいった。わたしは奥の奥に集まっている三つの墓石を見つけゆっくり歩いていった。流石におやつの時間に墓参りしている人はいないようだったので、わたしは恥ずかしげもなくさめざめと泣き、一歩ずつ進んでいった。まるで犬がここは縄張りだぞと主張するかのように涙は地面に染み込んでいった。  そして、墓石をじっくり観察してからわたしはあの時のように石の上を撫でてあげた。わたしに近い方から順番で三つにじっくりと。雨風にさらされて汚れてしまったようで手に細かな埃がついた。わたしはそれを両手ではらって、もう一度手のひらで墓石が綺麗になるよう拭いた。手の皺で汚れを絡めとる感覚があった。同時に墓石を伝って思い出したくない記憶が頭に入ってきた。  ああ、やめて。そのために来たわけじゃない。わたしは三人に会いたかっただけなの。そして頭を抱えてその場に座り込んだ。別に死ななくても幸せだったでしょ。わたしのためだっていうなら生きてほしかった。もっと三人の一部になっていたかった。  彼女らと組んだのは支えてくれる友達がいないことに絶望していた頃だった。あなたは何を欲しているのですかと問いかけながら、低姿勢で謙遜して喋らなければいけない。好きじゃない趣味の話にどうにかついていき相槌を返さなければいけない。人との会話は面倒だ。そして大人になるにつれ、より一層気を使うべきことは増える。だから、わたしはまるでテレビ番組のレポーターみたいに独り言を喋るようになってしまった。隣に彼氏がいる想定で話を進め、何かを問えばわたし好みの返答が返ってくる。周りの人は怪訝な目で見るけれど、わたしは現実と妄想の境界を無くしていたから全く気にしていなかった。そうして中学を卒業したときに、わたしは休日に遊びに出かけてカフェでおしゃべりする、そんな生活がしたかったことにようやく気づいた。わたしは焦った。古い自分に依存したまんま過ごしてきたから、青春も終わりに差し掛かっている頃に気づいたところで遅いのではと怖くなった。そして、努力することを決心した。高校一年生の数ヶ月は常人並みに会話力を向上させるため、世間をよく学んだ。そしてそれを妄想に反映させて、様々な個性の友達へたくさん話しかけた。  だが、現実で実行することはできなかった。グループが完璧に作られている状況でそれを壊しにいくなど無粋だった。わたしはもう一度人間を拒否した。ただ、全てを拒否したわけではなかった。わたしを受け入れてくれる誰かがいることを信じていた。わたしはいずれ訪れる人生の転機をじっくりと待った。  それは高校一年の夏が終わろうとしている頃のこと、なんとも唐突だった。席替えで隣になった人に「同盟」なるものに誘われたのだ。その人の名前は栗谷瞳といい、とてつもない美人であった。小さいけれどはっきりした目と細い唇がモデルかのように綺麗だった。他のクラスの子と毎日おしゃべりしている印象があって、一番やりにくそうな子だとして実行する条件には至らなかったのを覚えている。そんな子に子供心くすぐられるグループへ誘われたのだから、訳が分からなくて逆に期待してしまうのも無理はないだろう。  それは昼休み、弁当を食べているときに行われた。彼女は珍しく一人でお弁当を食べていて、急に彼女の机をわたしのにくっつけてきてわたしの左肩をトントンと叩いた。 「長峰さん、綺麗な鼻筋ね。ちゃんと私たちの基準をクリアしてる美貌があるわ」 「私たちの同盟に入らない?」  彼女はそう問いつつ、わたしを評価しているようだった。舐めるように見るという言葉を比喩としてではなくちゃんと状況を描写するのに使うことができるくらい、彼女は彼女の世界に入り込んでいた。 「と、いうのは」 「残念ながら言えない、事情でね。まあ、とどのつまり私たちと親友にならないかってことなんだけど」  わたしはなぜか嬉しくなって舞い上がった。友達じゃなくて一段階レベルの上がった親友になれるだなんて。同盟の内容が知れないのが怖かったけれど、わたしの心は揺らいだ。わたしはあと一歩を欲した。  彼女は席を立ち、わたしの正面に回った。 「お願い」  想像では補完できなかった感覚にわたしは酔ってしまった。わたしは何の心配もせず栗谷さんを信じ切った。  放課後、栗谷さんについていき活動場所に案内してもらった。歩いていけるほど近くはないとのことで、栗谷さんの自転車の後ろに乗らせてもらった。けれど、着いたのは学校から徒歩数分のファミレスだった。栗谷さん曰く、ここまで歩くのは効率が悪いとのことだった。  久々のファミレスに少々戸惑いながらも、栗谷さんに従って席へと向かった。そこには栗谷さんにも劣らない二人の美人がいた。海外の人のようなパーツがはっきりしていて美白な肌が羨ましい美人と、正面にいる満月のように煌びやかな黒髪が特徴の丸くて滑らかな顔立ちの日本らしい美人。四人席の椅子側の右にわたしが、隣に栗谷さんが座った。 「左の女の子が北野芽衣、でこっちが水浦雪音よ」 「お、お願いします。長峰です」  周りから見れば四人組の仲良し高校生が食事をとっているというシンプルな状況なのに、実際は仲良しの三人組に新参者が混じり込んだという悲惨なものであった。やはりわたしの選択は間違っていたのかもしれないと思った。 「そういえば、同盟の名前を言い忘れてたわ。あたしたちが作ったこの同盟は、心中同盟っていうの」  と北野さんからの一言。その言葉がまきびしみたいにわたしの足元に撒かれた。わたしは束縛されて動けなくなったのだった。 「心中、ですか?」 「そ、私たちみんな死にたがってるの。この世がいかに腐ってるかを証明するには私たちみたいな美を所有している人が死ねばいいと思ってるの。だから、協力してくれない?」  と水浦さん。はちゃめちゃなことを言っているがまっすぐこちらを見つめていて正気なんだと分かった。わたしはこういう狂気を求めていたのかもしれない。何かが昂ってくる。いつもなら余計なことを考えて理性的になってしまう脳は誤作動を起こした。 「わかりました、皆さんの期待に応えられるよう、頑張って死にます」  三人は大きな声で笑った。「死にます、って」「いい人連れてきたじゃん」「でしょ」。わたしも笑いの渦に引き込まれた。この人たちなら親友になれるかもとワクワクしたのだった。  別に三人はすぐに死にたいと病んでいる人たちではなく、どうしても世界を変えたいという思春期にありがちな野望を強くしていただけでそのためには筆跡を残す必要があったらしかった。わたしたちはたくさん遊んだ。カラオケ、インスタで有名なスイーツ店巡り、映画、などなど昔のわたしが毛嫌いしていた遊びをしまくった。  いつもその日の最後には共有ノートにどれだけ楽しかったかを書き殴る時間があった。思いの丈を文章にすると自分がさも有名人であるかのような錯覚が得られた。それでも、これが世界を変えるための筆跡になるなんて戯言を真っ直ぐに信じてしまうほど馬鹿になってはいなかった。 「こんなに人生充実してる奴らが死ぬんだよ。最高だよね」  三人は常日頃こう言った。彼女らは死をアリと同等であると思っていたようだった。  わたしは今でも死への恐怖がある。この時は今より生にこびりついていたから、心中には少し疑問が浮かんでいた。だから、三人の感じる楽しさとわたしのそれとには差があっただろう。しかし、当時のわたしはその違いさえ置いてけぼりにして楽しんでいた。  芽衣は常に難しそうにしていて、冷静に物事を把握して自分の意見や意思を尊重しつつも他人をしっかり受けとめてくれる性格だった。だからこそ、同盟のリーダーとしてうまくまとめ上げてくれた。  雪音は相手に合わせて喋ってくれるから話しかけやすい人だった。人を率いていたいように見えるのに裏方の仕事を好む異質さと誰よりも友情を大事にする情熱がわたしは大好きだった。  瞳は常に私が一番なんだというナルシスト的思考が備わっていた。しかし、仲間のためなら私が犠牲になってやるという逆ナルシストでもあったのが矛盾であり正常だった。  三人は極端な部分はあれど、根本的な「淋しさ」という点ではわたしと同じだった。三人は過去について話したことが一度もなかったから。だからわたしたちは一体となれたのだと思う。  出会って四ヶ月が過ぎた頃、わたしたちは旅行へ行った。江ノ島へ行った。時期はかなり過ぎていたけど、デートの聖地なだけあって周りではカップルが汚く手を絡ませて自慢げに歩いていた。すれ違うたびわたしたちは舌打ちをした、そして高笑いをした。  江ノ島旅行を提唱したのは芽衣だった。 「時代を変える日が近づいてきてる。あたしたちも人生最高潮にしなくちゃ」  とのことだった。  わたしたちは絶景をこれでもかというほど網膜に焼き付け、鳥のさえずりまで聞き逃さぬよう耳をすまし、美味しいものを大量に胃袋に入れた。一分一秒を無駄にしないよう身体中の穴という穴を開いて江ノ島を感じた。  わたしたちはホテルに泊まった。わたしのホテル代は母が出してくれた。泊まりに行くと伝えた時、母の財布にあった全ての万札を渡してきたあの行為、今では友達を大事にしろという意味だったのだとわかるけれど、当時はよく理解せずに受け取った。みんなすぐにお風呂に入り、さあ寝ようという雰囲気だったのに、お喋りが盛り上がって深夜の二時まで起きてしまった。 「ほらほら、早く寝ないとお肌が荒れちゃうぞ君たち」  と雪音。 「まあ、今日くらいいでしょ。私たち美少女だから」 「全く、瞳はいつも楽観的なんだから」  芽衣と雪音とわたしは呆れた。  案の定全員寝坊して、組んでいた計画が破綻した。仕方なしにちょっくら鎌倉に寄って帰ることにした。電車の中では寺巡り的なことをやろうと一応予定を組んだのだけれど、時間がなくて鶴岡八幡宮に行くのが限界だった。わたしたちは全員が同じことを神に願った。それは勝利であった。わたしたちが憂き世に打ち勝つのだ、とご利益を授かるために力を込めて手をすり合わせた。正直心中なんて宗教めいたことだからこれでは本当に三人が死んでしまうと思って、この時はどこか別の神にむかって彼女たちの死生観を変えてくれと傲慢にお願いしていた気がする。もう心中をするなんて思考は微塵も頭になかった。三人が結婚しておばあさんになるまで生きて欲しかったし、ずっとこの日常のままであって欲しかった。それでも三人とは同じ糸で結ばれていた。  最後に土産屋でお揃いのものを買うことにした。 「このキーホルダー良くない?」 「芽衣はどこにでも売ってそうなのが好きだよね」 「確かに」  わたしは芽衣の選んだキーホルダーが少し気になっていたから、 「わたしもそれ、いいと思う」  と言った。 「ほら、真琴も言ってるよ」 「真琴がほしいなら、買いますか」 「本当に二人は真琴信者だね」  そしてわたしたちは可愛いひよこのキーホルダーを買い、早速わたしはカバンにつけたのだった。  家へ帰るのがとても嫌だった。このまま四人で過ごすのが一番生き心地がするのだと真剣な気持ちを伝えたかった。改札を通る前にわたしは伝えようとしたのに、 「じゃあね」  と三人がとびきりの笑顔で言ってきたから、悲しみが最高潮まで到達して、 「ねえ、わたし三人の頭撫でたい」  と言った。  三人は呆れたふりをした。「まったく真琴ってやつは」「あたしたちに染まってきたんじゃない?」「いや、真琴が一番変人でしょ」なんて。  わたしたちは撫であいっこをした。髪の毛がくしゃくしゃになるまで幸せを感じ合った。わたしたちは動物として正解であるはずの行動だとして幸せを分かち合った。なんと言われようと青春であった。諦めていたわたしとのズレを余すことなく味わった。わたしは撫で出してから同時に泣き始めたのでわからなかったけれど、三人のひとみも潤っていた気がした。  その晩連絡を瞳と連絡を取ろうとしたらブロックされていて、他の二人も同じように連絡が取れないようにされていた。電話しても誰にもつながらなかった。翌朝、三人が死んでいるという情報がわたしのところにも回ってきた。  落ち着くもなにも心は空っぽだった。わたしは三人の自宅に足を運び、三人のお母さんからわたし宛だという遺書を受け取った。ルーズリーフを三等分にしたもので、くっつけることで読めるようになっていた。 《あたしたちがなにも残せないのは初めからわかってたの 心中なんて無意味だってことも  芽衣》 《だからこそ真琴は巻き込めない 真琴は私たちとは違うから  雪音》 《どうか生きていて そして私たちの何十倍も幸せになって  瞳》  いくつかの文字は淡く滲んでいて、わたしはそれが三人の涙によるものだとわかった。  三人はひよこのキーホルダーを手で握りながら死を迎えたそうだった。わたしも同じように手で握って、ひよこの頭を三日三晩眺め続けた。三日目の晩、側溝に自ら落とした。捨ててしまうと、わたしの体の震えはおさまった。  何かが運命を変えることを信じて、結局いつもの日々が流れてゆく。肩に力を入れてロボットのように手を振り会社に向かうサラリーマンも、ブランド物のバックを持っている優越感で常に上から目線で歩く三十路の女も、変わらず生きている。三人はそれに反抗したために、勇敢で馬鹿な死に方を選んだというわけなのだろう。今ではそう考えていたのだと理解できる。  わたしはその三日のあとこれまた一ヶ月の間狂い続けて、自分を失った。だんだん寒くなってくる気候がわたしをよく表していた。そして、わたしの個性とも言える物事への臆病さと妄想癖はまるで消えてしまった。これに人生を悩ませてきたわたしとしては、少々寂しいものがあった。  わたしは未だに三人があの世に行ってしまったということを拒んでいる。上にも下にも行かず、ずっと低空飛行の人生を歩んでいたわたしに訪れた希望はまだ輝いていると思われてならない。わたしはずっとそれに縋りついて、ここまでなんとか生きてきたのだから。  太陽はとてつもなくわたしを照りつけていた。できた影はわたしの動きを真似したくなくて、今にもここから逃げ出したいように見えた。馬鹿言うな、わたしだって逃げたいわ。わたしは早く夜になってほしかった。そうすれば今の自分に対する見方が変わる気がしたから。わたしは三つの墓石を抱きしめた後、涙を袖絵で拭いて競歩みたく足を前へ前へと突き出しながら墓場を出た。  帰り道の途中、ワンルームすらないのではと突っ込みたくなる大きさの公園をたまたま視界に入れたとき、知らない人がちっぽけなベンチに座りながらもなかアイスを食べている様子が見られた。その公園はホームレスや露出狂の住処として有名で基本誰一人近づかない場所だった。しかし、ただの変質者なら無視したのだけれど、どうやら違うようで、その男はそういう人たちとは違い妙に小綺麗だった。わたしはどうにもその人が気になってしまった。  わたしは近くの電柱に身を隠しながらその人を観察した。その人は男であった。彼は人間を受け付けないと言わんばかりの冷酷な目でどこかを見つめていた。最初は一人を好む人種か虐められたのかのどちらかだろうと思った。しかし遠目から顔を見ると、彼は美少年なのだった。長い前髪と明るい水色に彩られた髪色が絶妙に二次元的な雰囲気を醸し出していた。そして、彼は真っ白な紳士服を土埃と泥で汚していた。さらに派手なネクタイをして革靴を履いていて、食い合わせが悪そうなのにそれが完璧に似合っていた。人間に元からあるダサさは大昔になくしてきたかのようだった。わたしは都会から帰省とかでやってきた大学生が田舎のつまらなさに辟易しているのだろうと憶測をつけて、思い切って公園の中に入り彼に声をかけてみた。 「あの、すみません。どうかされましたか?」  彼はこのタイミングでわたしに気づいたようで、ベンチをガタッとさせて体を上に起こした。彼はアイスを砂と混ぜ合わせてしまったことはまったく気に留めていなかった。彼は神妙な面持ちでわたしの方を見た。 「どうしてこの場所を、あ、ああ」  彼はわたしに怯えていた。元のアンニュイさはどこへ行ったのやら、長い指を細かく震えさせて体を縮こまらせていた。 「わたし、心配になってきただけでして」 「嘘だ、僕のことを追っかけてきたんでしょ。だめだ、まだ僕は生きるんだ。死にたくないんだ。せめて、今日だけは慈悲をください」 「いや、あなたの想像している人とは違うと思いますけど」 「お願いします、許して。ここはなんとか見逃してください」 「だから人違いですって、わたし、あなたのこと全く知らないですし」  わたしを悪者だと勘違いしているであろう彼にイラついて、強い口調になってしまった。初めて会った人なのに何十段も上の階段からわたしを優しく見下ろしているように感じてしまうのもわたしを昂らせる要因だった。彼はカッコよくなかった。スマートでもなかった。  彼はぼろぼろのジャングルジムに身を隠して、息を荒げていた。 「じゃ、じゃあ、本当にあなたが心配して声かけてくれた優しい人だって言うんなら、あなたのスマートフォンを貸してくれませんか。調べたいことがあるんです」  わたしへの疑いを晴らすためにスマホを貸し出させる必要があったのかがわからなくて、惑わされておそるおそるポケットから出した。彼に従う必要もなかったが、もう少し彼のことを確認したかった。これが彼の本当だと認識するには早い気がした。「十分だけですよ」とスマホをホーム画面のまま渡した時、彼はより一層疑いの気持ちを強くしたように見えた。ならなぜそんなことを言ったのか。わたしだって怖いし恥ずかしいのに、無下にされた気分だった。  彼の顔の強張りが、段々ほどけてきた。 「………人違いか」  そう呟いた。 「え?」 「いや、僕の思ってた人じゃなかったっていう、だけです」 「なのに、謝りもしないと」 「あ、ご、ごめんなさい」  乾いた声で謝られたところで響くものはなかった。彼はより一層わたしが怖くなったように見えた。  真剣に画面をスワイプしている彼がそこまでして調べたいことはいったい何なのか気になって、彼の背中の方から覗き見した。彼は一瞬震えあがるも、特に様子も変えず立っていた。画面には大量の文字が書いてあって、酔いそうになったので情報はうまく拾えなかったがニュースの記事を読みたかったのだろうということはわかった。大見出しだけはわたしの視界にドカンと入ってきた。  「新世代を担うアイドルグループVtaminのメンバー ミュージックビデオ撮影中に逃亡 今も行方不明」、わたしは彼の服装にようやく納得できたのだった。そして彼がベンチに座っている姿が様になっていたのは常に溢れる芸能人のオーラによるものだったのだと合点が入った。心臓の鼓動が速くなった気がした。  そして彼は一つの画像を見せてきた。 「ここで、踊ってるのが僕、なんですけど、見覚え無いですか」 「うーん」 「やっぱりわからないです」 「そうですか」  彼は一瞬安心して、そのあと意気消沈という言葉が似合うほどに落ち込んだ。彼は感情表現が豊かであった。  実際、わからないというのは嘘だった。わたしが自ら調べた覚えはないのだが、おそらくテレビか何かでちらっと見たことがあったのだろう。世間を知らないわたしでさえ知っている認知度のアイドルとただの凡人の、魅力の差は小さいようで膨大なんだと改めて感じた。  彼が無言でわたしのスマホを返してきた時、わたしは本来の目的を思い出した。 「なんてことはいいんです、わたしはあなたを救いに来たんです。可哀想なあなたを助けたくて来たんです」 「ほら、手を貸して」  そうして彼の左手を握ろうとすると、彼は一瞬躊躇ってから、もう一つの手で払われた。 「あなたへの疑い、は継続中です。まだ信じきれません」 「は?」 「優しい人を装った悪魔かもしれないし、偽善を楽しむサイコパスかもしれない。なんの保証もないんですから」 「今もあなたはそうやって手をグーパーしてますけど、それ何かの癖でしょう?僕は本心を覗かれた時の癖なのではと臆測をたててますよ」  彼は顔に似合わずガツガツ人を突いてくる意地悪なタイプだった。かっこよかった目つきは今や腑抜けていて目尻に皺が寄っていた。彼は口を動かすだけで生き生きしていた。彼はキャラを作っているタイプのクズだとわたしは睨んだ。  わたしは表向きでは他人に愛想を振って裏で本性を表すような人間が大嫌いだった。そんなわたしの最も嫌いな人種であり、さらにアイドルというこれまた嫌いな要素もあるとは、神がわたしを殺しに来たとしか思えない。わたしの中の彼を助けてあげようという気持ちは最初よりも薄れていた。このまま帰ってやろうかと思った。  彼にわたしがただの良い人であったことを伝える義理はなかったが、何も言わずにこの場にいるのもどうかとわたしはジャージのゴムを掴んで太ももの真ん中までたくし上げた。  膝上の外側にはわたしの一番恥ずかしいもの、大きなほくろがあるのだ。いつもは衣服で隠されているからこそ、性器と同じくらい晒してはいけない部分だと感じてしまう。それをほとんど面識のない異性に晒すわたしが何だか馬鹿らしかった。そんなわたしの嫌そうな顔とほくろを彼は交互に見ていた。彼は頬を赤らめた。十何回の往復が終わったとき、彼は言った。 「ごめんなさい、僕、人の善意さえ疑うとんでもない人間になってました」  なんと彼はほくろがわたしの中で最も大切なものだと認識したようだった。もちろん、そんなわけはない。人前で裸になる方が恥ずかしいに決まっている。  わたしはさっきの、彼をそのままにして帰ってやるという考えを撤回することにした。わたしはあの面倒な訪ね方も彼自身ではなく不安や焦燥によるものだったのだとしてうまく落とし込んだ。今のわたしに足りない天然の面白さが彼にはあるような気がした。 「僕、あなたのこと信頼しようと思います。だから、僕から頼みたいことがあるんですけど聞いてくれませんか」 「そりゃ、もちろん」  話は急に進んで、彼はお願いを受け入れてくれるという体裁でこちらに訪ねてきた。わたしの許可などは関係ないようだった。もちろんわたしが断ることもなかった。 「あなたの家に僕を入れてくれませんか」  さも当然のように爆弾を投下してきて、それは隔たり、障害物を通さず伝わってきた。処理が難しかったからなのか、そんなセリフを好きな人に言ってもらいたいなあと無駄な想像をしたからなのか、わたしはその誘いを了承したのだった。  当然、この二つは理由ではない。わたしの心の中にある人助けのためという偽善と一種の好奇心が混ざり合って、進化した感情に流された、これが主な理由だと思われた。普通なら見知らぬ人、しかも関わらない方が良いであろう人を家に入れようとはならないだろう。けれど、今のわたしは狂っていた。三人に脳も体もぐちゃぐちゃにされていた。そうすれば人間、同じように馬鹿になるものだ。そんな理屈は通用しないけれど、もうわたしは、楽しいを求めていた。  不思議にも今のわたしは心を客観視できた。首から上が空に登って、わたしを見る。その心臓の中を覗くと、経験を踏み台にして新たなわたしへ進化しようとしている自分が心にいた。成長を愛し、人のすべてを飲み込もうとする器用すぎるわたしが。  断れるはずがなかった。  わたしたちは帰り道を一切喋らず無心で走っていった。重くぬるい空気をかき切る感覚が気持ち良かったが、そんなことはどうでもよかった。絶妙に遠くてかなり息があがったが、彼はわたしよりもお疲れのご様子だった。ジャケットを腕で抱えてシャツのままいる様子からよくわかった。革靴が走りづらいというのも理由の一つだろう。  わたしは母親が家にいることを考慮していなくて、どうやってわたしの部屋にバレないように移動させるかを思案したが、裏口から勢いのままに二人で行ってしまうことにした。裏口の扉に立つと、わたしは「行くよ」と言って鍵をさし扉を開けた。  わたしの運の悪さには定評があった。給食が余った日は毎日じゃんけんをしにいったのに勝ったのは覚えている限りで二回、何も取っていないのに万引きをしたとしてコンビニの店員に別室に連れて行かれる、など大きなことは起こらずとも一日を憂鬱にするレベルのものが慢性的に起こるのだ。最近は家からほとんど出ないから不運をもらいに行くことはなかったのだけれど、今日に限って神に嫌われた。開けたところには母がいた。まさに出会い頭という言葉が似合う瞬間であった。  裏口はキッチンにつながっていた。しかし、母は料理などする人ではなかった。だから、わたしは油断していた。母は誰かと電話をしていた。ここでする意味は分からなかった。こちらは見向きもしなかったので、何とか入れそうであった。彼はとにかく人に存在がバレてはいけないらしくわたしの背中に隠れながらすり足でついてきた。それで隠れられているのかは知るよしもなかった。わたしの部屋も母と同じ二階にあるので、上がるための階段を指差して彼に進路を示した。わたしは母の動向をずっと監視した。そして、挑戦に成功したのだった。  彼はわたしの部屋を舐めるように見た後、服を左の脇に静かに置いて角の壁に寄りかかって座った。わたしには居心地が悪そうな場所に思えたが、彼は安心したようで口角をほんの少しだけ上げた。  それからは予想通り気まずい時間が流れた。わたしが椅子をくるくるさせることで生じるキリキリという音だけがこの部屋を彩った。彼も体育座りに座り方を変えて、腕で足をぎゅっと押さえつけた。意図せずにわたしの足が床についてしまい、再び浮かせるのは力を入れなければならなくて面倒だったのでわたしは気に障らないよう適当な質問をした。 「年齢は?」  今後どう関わっていくかを決めるためにも、まず敬語を使う使わないは重要だということで、あくまで独り言をそっとこぼすような感じで言った。わたしは緊張し始めた。 「二十一です」  酒が飲める、わたしはまずそこに驚いた。もちろんどんな人も老化するから飲酒の権利を得るなんてのは当たり前なのだが、ウイスキーを飲みつつ映画を嗜むみたいな、生活を楽しむために少しお酒を飲むような一面は想像し難かった。ベロベロに酔って、ふらついているのが似合っていた。それくらい彼にはクールでありつつも溢れ出る幼さがあった。  それから、今までの言動が失礼に値していたことに気づいた。わたしは手を口に当てて首を丸めた。 「ごめんなさい、年上だなんて思わなくて」  わたしは恥ずかしさで押しつぶされそうになった。緊張はより強まった。けれど、もう一人の冷静なわたしは次の言葉を聞き逃さなかった。 「いいですよ、どうせなら口調をどっちかに合わせましょうか」 「じゃあ、タメ口で」 「わかりました、じゃあ今後もこのような調子でいきますね」  彼は勘違いをしていた。彼の中でのタメ口は敬語とほぼ同義のようだった。そして、彼は電気を見上げながら嬉しげな表情を浮かべた。彼はタメ口で喋っていると思っているからわたしも合わせて喋る必要があるけれど、実際二人は何も噛み合っていないという面倒が生じることとなった。  彼にまたスマホを貸してくれと懇願されたので、渋々渡した。細かい状況の把握をしたいらしかった。暇はいつもこの文明の利器で潰していたから、なんとなく懐かしい友人に思いを馳せるような心持ちであった。  そうだ、中学の頃下校中にタバコを吸ってる姿を見られて退学になった女の子、元気にしてるかなあ。非常に悪だったけど自分を曲げずに突き進むあの子はまさに薔薇の花だった。わたしはそんな噂を地獄耳で入手したから知っているだけでなんの関係もなかったけれど、だから懐かしいと感じるのだろう。そんな子もタバコがバレて先生に手を掴まれ、職員室に連れて行かれてほっぺを涙袋まであげながら泣いてしまったのだという。数少ないわたしの知り合いがその状況の写真を持っていたから見た時、その子がコンクリートに細々と生える雑草くらい萎縮していた姿に興奮したなあ。わたしは思い出してニヒヒと笑った。  わたしがベッドに横になっている間、彼はずっと調べていた。わたしは彼を幼すぎる成人アイドルと認識していたが、ここまで心配するようなことをしでかしたのか。わたしはようやく彼の現在の状況について聞いた。 「あなたは、今何をしているの?」  彼はスリープした。顔を上げてそのままの体勢で考え込んでしまった。確かにわかりにくい質問だったかもとわたしは後悔した。地域の五時のチャイムが始まった瞬間、彼は意図に気づいたようで、左手をパー、右手をグーにしてポンと手を鳴らした。 「えっと、記者から逃げるために頑張っているんです。色々あって、逃げなきゃならなくなったんです。英才教育を受けた僕みたいなやつが生活に気が滅入って家出する、そんな身近でない事件を記者は好むんです」  情報の多さゆえにわたしは混乱した。色々の部分に触れてはならないことはわかった。英才教育、気が滅入る、その言葉たちに隠された、省略されたところが大事であった。わたしは早口で言った。 「英才教育ってどういうこと」  彼は首を傾げて口を優しく結んだ。どうやら問うたことは秘密にしたいわけではなさそうだった。彼は両手を合わせて胸の前に持っていった。 「厳密に言えば英才教育ではないかもですけどね」  彼の目は哀しげだった。 「僕はもともと音楽の道を目指していたんです。母が世界に名を馳せるほどの天才フルート奏者で、僕も人並みに憧れて自分を信じて色んな楽器を極めました。しかし、僕は全ての楽器において才能の塊を与えられてなくて、ダイヤの原石に敵う能力はまるでありませんでした。それでも母からは厳しい教育を受けました。凡才が天才に教わるのはただのレッスン行為で教育とは遠いものがありました。だから、英才教育とは違うかも、とさっき僕が言ったんです」  彼は一通り話すのを終えたようだった。わたしは続きを欲した。  音にするつもりはなかったのに「アイドルになったのはどうして」と無駄に言葉を落としてしまった。彼は目を細めて笑ってからそれを回収してくれた。 「確か、高校在学中の時です。アフリカを旅しました。当時の僕は若さを頼りに経験を積み重ねました。移住してきた日本人の方とはもちろん現地人とも友達になって、まさに人生の絶頂期でした。そこで民族音楽に出会ったのです。大地を震わせるほどの低音がまるで地球の鼓動のようでした。そうして僕は、この素晴らしさと真逆の世界を作り出さなければという使命感が生まれました。異種を混合することこそ音楽の真理だと気づいたんです。僕が一番になるにはこれしかないと思ったんです」 「ただ、それだけです」  わたしは「そうなんだ」と、まるで三回目の席替えで隣になった男の子と話す時にうまく言葉を挟んでいくかのように控えめに相槌をした。彼の発言は後半からは現実で起こり得た思考なのかと疑いたくなるほど複雑だったが、なんとか情報を選びとって理解した。  彼は気持ちを落ち着けていた。その間、わたしは彼がアイドルを始めたきっかけが普通でなくて良かったと安堵した。そして、彼の世間知らずな風貌が環境にもたらされたものだと仮定できたのにもまた安心した。  わたしは自分の胸に手を当てて内側のわたしを確認した。今のわたしはこれと決めた行動や考えが他人のものであるような不思議な感覚を持っていた。いつものわたしはこういう話に感動するやつじゃなかったからだ。それを排除したいわけではなくて、どうせならわたしの本能に色濃く移り変わる一瞬を植え付けておきたいだけだった。  彼はぬるっとわたしのスマホを渡してきた。「ありがとう」と彼は言った。わたしは手に取った後もそれをいじることなく、なぜタメ口で感謝を伝えてきたのかというつまらない疑問について真剣に考え込んだ。わだかまりがなくなるまで考えていたが、なくなることは無かった。ずっとモヤモヤしていた。  今日の疲れが現れ始めてきたタイミングで、わたしは編み出した答えに納得した。わたしは彼を単純な興味というフィルターで見ていたのだ。レタスが値上がりしているとか赤いペンのインクがほとんどないとか日常の些細なことと同じであったのだ。とてもすっきりした。また、わたしは彼に申し訳ないなと心苦しくなった。そうして彼に対する印象もほんの少し変わった。  彼は喉が渇いたようで、水を取ってきてほしいとわたしに頼んできた。軽めの運動をしたために筋肉が冷え固まってわたしもそれが気持ち悪かったので、快く了承した。いつもは客にも水道の水を出しているくらいケチなのだけれど、今日はたいそうな理由もなく冷蔵庫にある水をコップに入れた。彼は酒をいただくかのように豪快にかつ丁寧に飲んだ。彼はコップを床にドンと音を鳴らしつつ置いた。わたしは彼のことを理解した気でいたようだった。新たな一面に理性的な興奮が生じた。彼は混沌だった。  わたしは彼とわたしの置かれている状況を整理した。まとめてしまうと、よくわからない動機で行方をくらましたアイドルとそれをまた理由もなく助けて家へと案内した一般人という馬鹿げたものになっていた。わたしは事態の危うさを抽象化したことで改めて理解した。腹の中に不快な物質が溜まっている感触があった。わたしは口を鼻に寄せる動作をして、テレビのリモコンのボタンを強く押してチャンネルを何度も切り替えた。ちょうどいろんな局がニュースを放送している時刻だった。  十五分程度経ったのち、求めていたニュースが再生された。逃亡から一週間があけているが未だ捜索中ということを男のアナウンサーが普段の神妙な顔で読み上げ、どうでもいい取材の様子を映した。かわいい女やかっこいい男は誰一人出てこなかった。時間がもったいないからと音量をゼロに下げてテレビを消し、見るのをやめた。わたしは彼の過去でなく未来を知りたいのだ。正確には明日の予定だが。なら、ニュースから情報を得る必要もないなと自分の非効率な行動にあくびが出そうになった。 「これからどうするの。わたしは場所しか提供できないよ」  責めたいわけではなく、電車の運転手の確認作業くらい未来の計画作りは丁寧にやらないと気が済まないのであった。 「安心してください。一生暮らしていける潤沢な資金もありますし、食べ物は好きな時に配達してくれる時代ですから」 「案外悪くないもんです」 「そうじゃなくて、まさかこのままバレずに過ごしていけるとでもお思い?」  彼はきょとんとした。 「まあ」 「あのね、こういうのはちょっとした隙に疑いをかけられて噂が広まって見つけられちゃうの。そういうオチなの」  犯罪等何も起こしていない彼が逃げていることがまさに作り話のようだから、わたしの発言が出任せらしく聞こえてしまうのが腹立たしかった。 「僕だけで生活を成り立たせていく必要があったからさっきは絶望していましたけど、あなたがいますから」  大した会話もなく、偶然湧いてきた善意の捨て所が曖昧だったために手を差し伸べただけなのに、彼は気狂いの如くわたしを真っ直ぐ信頼していた。わたしの体は四十三度の風呂に肩まで浸かったときに似ている圧縮されたメラメラで満たされた。  わたしはベットを降りた。そしてくしゃくしゃになったシーツを大雑把に直した。椅子に戻ってベッドを指差して言った。 「寝な。疲れてるんでしょ」  外からの光だけぎりぎり生活できる程度の夜ではあったものの、わたしも彼も眠かった。彼はゆっくり腰を上げて、回旋した。ポキポキという音がした。彼はベッドの淵に座り、「ほら、あなたは優しい人です」と素直で直接的な感謝をぶつけてきた。彼は人を満足させる特別な力を持っているようだった。彼は横になった。そして、彼は美しい寝顔を披露した。わたしは青色のタオルケットをそっと被せてあげた。  わたしは眠気を堪え、Vitaminのライブ映像を調べて視聴した。彼らは闇に覆われた空間で踊り、マイクに魂をぶつけ、美しい顔でわたしたちの瞳を画面へ吸い寄せた。全員のレベルが高くて驚くばかりだったのだが、彼のソロパートに関してはある種の芸術とも言えるくらいに歌声、ファッション、踊りの融合が格別だった。今日みたいに抜けていることはなく、優雅で上品な彼の振る舞いは恵まれた才能を正当に活かし切れているように見受けられた。アイドルは彼にとって天職だったのだろう。しかし、世間はわたしの感覚を貶すかのごとく散々だった。地味だのダサいだのカッコつけてるだけだろだの語彙力のない罵倒のコメントが動画の下に書かれていた。わたしは匿名に油断している彼彼女らをぐしゃぐしゃにしてやりたかった。他人に対して憤慨した数少ない機会にわたしは拍手をして、動画を閉じた。  どうにも首が痛いし、より重力が強くなった気がしていたら、椅子の背もたれに寄りかかったまま寝てしまったようだった。瞼は重くてもっと目を開かせようと親指の付け根でこすった。時計が視界に入ったので時間を確認すると、時刻は九時であった。午前中が三時間しかないと考えるだけで、睡眠は無益に思える。時間にはポジティブであるべきだけど、最近はそれができない。タオルケットはきれいな四角形に揃えられ、そこには彼はいなかった。  逃げられてしまったのか昨日の出会いが夢だったのか、おそらくそのどちらかだろうとしてわたしは彼の不在にさほど心配もせずにシーツへ消臭スプレーをぶちまけた。男らしい匂いはしなかったけれど、日常を汚されるのは許せなかった。   その時、玄関で鳴ったかすかな音が聞こえた。ついに我が家に泥棒でも入ったかと警戒しつつもどこかわたしはワクワクしていた。忍者かの如く滑らかな駆け降りで一回に降り立った。人であるのは間違いではなかったが、そこにいたのは彼であった。彼は肩で呼吸をし、肌には大きな粒がひっついていた。彼は運動をしたようだった。 「ごめん」 「あなたがあまりにも幸せそうに寝ていたから勝手に外に出てしまったんですけど、一言言うべきでした」 「朝ランニングするのが日課なんですよね。僕、走るの好きなんです」 「そんな服で走りに行ったの?汚れちゃうし、第一死ぬほど暑くない?熱中症なったら色々大変だよ」 「確かにそうですね、僕がバカでした」  わたしが世間の当たり前に属しているはずなのに、彼の主張に丸め込まれてしまった。彼が潔く自分を曲げるからわたしは打ち負かせずそれに負けてしまう。 「ねえ、どうして逃げてるんだかああだこうだいうつもりはないけど、あたしはそこそこ気にしてるんだから。ということで、ちゃんと連絡取れるようにしましょう」 「でも、僕携帯電話ないですけど」 「わかってる、公衆電話であたしのスマホに連絡入れれるように電話番号教えるってこと」 「なるほど、頭いいですね」 「こんなん普通でしょ」  何事も彼に褒められると、狂うほど恥ずかしくなる。自分の髪の毛をくしゃくしゃにしたくなる。わたしは冷蔵庫に貼ってあったメモ用紙に電話番号を書き殴った。紙はしわしわになったになった。そして、彼の左手に握らせた。彼は「ありがとうございます」と言って軽く礼をした。昨日と違い感謝の言葉さえ敬語だったことがとても不満だった。わたしは階段を三段登って、振り返って彼の方を向いた。 「そろそろ、敬語やめて」 「え、いまタメ口じゃありませんでした?」 「ぜんぜん。なんならよりわたしを敬い始めてるよ」 「うーん」 「とにかくお願い、あたしが年上みたいに錯覚しちゃうから。それは嫌なの」 「あたしは謙虚な存在でいたいから」  彼は無邪気であった。感情表現に何の迷いもなかった。だからこれ以上不評を言うのはよくない気がした。わたしは小走りで自分の部屋へと向かった。彼もついてきた。    
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