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 北野芽衣  土埃が舞った。次第に消えた。子供たちには今後襲いかかる苦しみを未来の記憶として贈呈してあげたくなった。そうすれば鬼ごっこの楽しさを余すことなく感じられるだろうから。わたしのように小さな公園で遊ぶ子供たちを草木に隠れながら観察するクソになってはいけない。わたしは彼に「戻ろう」と言った。 「なんでですか、今あの子たちの一騎打ちなんですよ。ああ、捕まっちゃうかなあ」 「ほら、戻るよ」  彼の手首を掴んだ。 「頑張れ、右だ、右にいけ、そう。そんでまっすぐ突き進んで」  捕まった。 「よし、二人で彼を讃えましょう」  わたしも彼も拍手をした。  もともと公園に行こうと言い出したのはわたしの方で、外の空気を吸わせたかったからなのだけれど、彼は子供が大好きなようで予想外の気分転換をされてしまった。彼の生態調査になったのでよかったと捉えられるからいいかと適当に納得しておくのだった。  三日彼と過ごしてきて、ずっと家にいたからか自然に会話が増えて結構仲良くなった。三日程度でどうにもならないだろうと疑いながらも過ごしていたのだが、朝から晩まで興じていれば必然といい調子になってゆくものだった。彼が部屋の隅にいてわたしが椅子に座っているという構図は出会った頃と変わらなくて、でも彼の笑顔は増えた。  なんともまあ、わたしたちは噛み合っていたのだろう。勝手に話すわたしとそれを広げていく彼。お笑い芸人の中で誰が好き、から将来どこまで考えてるという話題になり、キャバクラ行ったことあんのなんてちゃらけた件へとそらしていった時は寝る間も食べる間も惜しんで口を動かしていた。人間、周期的に対話をしないと絶望してしまう。わたしはちょうどそんな気分が来たのだと空虚に来る未来を見つめていたけれど、実際わたしが考えていた周期が終わっても、変な意味でなくわたしは彼を求めていた。  今日は夏休みの終わる前日だ。課題はあと読書感想文だけで、本までは読んでいるのだけれど、なんともやる気は起きない。現代人病というやつだとわたしは捉えていて、多量の情報に毒されていると恐ろしく集中力が続かなくなる。やらなきゃ、が足枷となってしたい行動の対偶を取ってしまう。  こんなときに必要なのは気分転換だとわたしは知っていた。気持ちが塞ぎ込まれていたその時、ちょうど散歩をしたい気分であった。彼は共用のポテチを食べながら寝転んでいるなんとも滑稽な姿を晒していた。ついにクールという言葉はどこかへ放棄されてしまったようだった。だから、わたしは自堕落な彼に外に出ないかと提案した。  彼はバンドマンのように首を振って意見を否定した。わたしはなぜと聞いた。「なんてったってバレる可能性が高くなる、これが僕にとって問題なんです」と答えた。じゃあ行きたくないのと聞いた。「行きたくはあります」と言うのだった。わたしは普通に嬉しくて、とにかく方法を考えだした。  わたしはアイデアをいろんなところから刈り取ってきて、ようやく発見した。父の半袖と長ズボンが箪笥にしまってある、これに気づいた。わたしは階段を往復してそれを取ってきた。上がグレー、下は黒と地味になっているから彼も嬉しいのではと期待した目で彼を見た。案の定だった。早速着せて、一つ想定外の事態が発生した。似合いすぎてしまった。父はガタイが良かったのでダボダボだったのが今らしい服装になったのだと思われた。彼はそれに気づかず、満足げな表情を浮かべていた。紆余曲折を経て外出することに決定したのだった。 「やっぱり、外の空気は美味しいですね」 「そう?」 「澄んでいて爽やかなのがいいです。都会が汚いからかもしれないですけど」 「まあ、不便な田舎でいいとこ見つけようとしたら美味しい空気くらいだし」  彼は唐突に笑顔になった。 「外出、怖かったですけど、気持ちはもう晴れやかです」 「田舎で人がたむろしてることなんて滅多にないから」 「どうせ家にいようがバレる可能性もあるんだからさ、数日に一回でもいいから外行こうよ」 「そう、ですね」  まだまだわたしの家に滞在してくれるという前提で話を進めてしまったのは申し訳なかった。  わたしは散歩するのも外に出るのも好きで楽しいと思うたちだというのは間違いないけれど、なぜだか今日は疲れていた。足がパンパンで上半身がとてつもなく重かった。そのせいで心から楽しいと思っているのに、偽の感情を彼に伝えてしまっているようで、それがなんとなく嫌だった。だからだろう。彼に出会う前の、あの三人に出会う前の傲慢に理想を求める自分が乗り移ってきた。  彼女はポツンと言葉をこぼすようにして言った。 「ちょっとは自由に生活させてよね」 「そ、そうですよね」  彼がこれに反応したことでわたしが今何をしたかを理解した。こんなことはわたしの心の中になかったんだと弁解したかったのだけれど、彼はもうその言葉の意味について熟考しているように見えたのでやめておいた。  わたしたちはカラスの鳴き声やハイブリット車の静かな走行音が鮮明に聞こえるほどの静寂を嗜みながら、歩いた。家の近くのコンビニまでやってきて、彼が「ちょっと買いたいものがあるので」と言った。わたしは危険なんじゃないと忠告したけれど、怯えずに入っていった。彼はもう安心しているようだ。彼を置いていって先に帰ってもよかったが、とりあえず待っておくことにした。五分ほど経って、彼は両手にチキンを握った状態で戻ってきた。 「はい」 「ありがとう」 「でもどうしてコンビニのチキンなんて買ってきてくれたの」  彼は答えた。 「君が好きそうだった、から」 「ふーん」  彼の中でわたしの自由とは何かを考えた結果、好きなものを食べさせてやることだと判断したのだろう。  わたしはチキンにかぶりついた。コンビニらしい非人間的な味であった。 「どう?」 「まあ、そりゃ、美味しい」 「そっか」  彼は敬語でなくなっていた。わたしは自由がほしいと言ったけれど、すぐにでも求めているわけではなかった。それを求めているのはあくまで昔のわたしであったから、敬語がいいならそのままでもいいよと言ってあげたかった。しかし、彼はわたしを想って行動してくれた。同じ立場で話すにはこれがいいだろうと決めてくれた。彼を犬、わたしを飼い主だとして主従関係にある状態だったところから、わたしも犬へと変貌したことにより、彼の波立ちを止めてやる権限はなくなっていたのだった。  と理性的には対応しつつも、十分嬉しくてにやけるのが止まらなかったので、再びチキンにかぶりついた。さっきは感じなかった程よい辛さが、口元を襲った。彼も一口食べては程よい辛さに驚いていた。そんな彼の横顔は抜群に綺麗だった。わたしに慢性的に張り付いている「淋しさ」は消えかかっていた。   翌日、わたしが予想していない事態が起きた。母が男を連れてきたのだ。毎日感情が暴れだす母はなんだかんだ言って父を特別視していて、愛していたはずだと思っていたから幾分予想外だったのだ。確かに父の写真を破いてから電話を何回もしたり、外出が多かったりした気もしたけれど、まさか男関係だったとは。  それは、わたしが彼が食べたいといっていたハンバーガーを買ってきて、わたしの部屋に戻ろうとしていた時のことだった。階段はリビングにあるから母と男がソファに座っている不可解な状況は嫌でも目に入った。母はちょうど今気づいたというふうにして立ち上がりわたしに真実を話した。 「この人は裕文さんって言って、わたしの婚約者なの。だからほら、挨拶して」  男が、やめろよまだわからんよと恥ずかしがって、母がいいでしょと隠すように言って、高校生の恋愛を感じさせるその雰囲気が汚くて気色が悪かった。わたしは右手で持っているハンバーガーの入った紙袋を前後に揺らした。 「どうも」 「これからよろしく、お嬢ちゃん」  どうしようもなくイライラした。わたしはこの男の風貌が嫌いだった。筋肉質な体つきであるのにパツパツのシャツを着ているところ、フケまみれの髪、汚らしいすね毛と腕毛。これからこの人と関わっていかないといけないということを理解すると、戦慄が走った。 「そうだ、お嬢ちゃん。流石にお嬢ちゃん呼びは一つの家族として違うだろう?なんて呼べばいいかな」 「別になんでも」 「ほらそう言わずにさあ、答えてくれよ」 「ほんとになんでも」 「さあ」 「いや」 「ほら」 「なんでもって」 「さあ」 「じゃあ、真琴で」 「よしわかったよ、真琴。ありがとう」  こんな少しの会話でさえこの人の心底が見えた気がした。とにかく気持ち悪かった。  おにぎりを買ってきたから食べないかと言われたけれど、癇に障らない程度にうまく断った。その人はにんまりして首を傾げた。体の震えが止まらなくなった。  なぜ出会ってすぐの時点でわたしはあの人を受け入れられないという前提条件が出来てしまったのかを必死に考えた。わたしは人の内面を読み取れる能力があるわけではないから、あの人を本能が拒んでいるということだけはわかった。頑張って頭を働かしても結論には至らなかったので、深呼吸をしてあの人を忘れることにした。  部屋に入ると彼が床に座っているのに安心感を感じた。心が落ち着いた。わたしは太ももに当たってくるハンバーガーがぬるくなっているのに気づき、「ほら、食べよ」と言って彼が好きなチーズバーガーとポテトを胸元めがけて勢いよく投げた。ハンバーガーはキャッチできたものの、ポテトは何本か落としてしまっていた。  わたしは数口咀嚼して口周りを油で潤して、彼に申し訳なさを伝えることにした。 「あのさ、申し上げにくいことなんだけれども」 「真琴のお母さんが連れてきた男の人の、こと?」 「ああ、そう」 「よく声の通る人ですね。で、それがどうしたの」 「最近は母がいなかったから多少自由にできてたけど、どうやらあの婚約者に会いにいってたらしくてさ」 「これからは在宅の時間が増えるだろうし目につかないように立ち回るのは難しいかもって話」 「なるほど」  わたしは袋に入っていた口を拭く紙を使ってジャンクフードの特有の油をとった。女座りが苦になってきたのであぐらに座り変えると、腰回りと太ももに少し力がはいった。 「だから、ここから出てもいいんだよ、というか危ないんじゃない、っていう」  わたしはまだ彼と過ごしたくて未来を想像しているエゴな部分もある上で、まずは彼の意思を尊重しようという思考が十分に備わっていた。しかし、彼は「いや、まだここにいたいな」と言った。わたしは彼をずるい人間だと思った。けれどその返答はわたしの予想通りであった。 「真琴って名前、いいよね」 「え、急にどうしたの」 「いや、僕の名前が本当につまんないなあと思って」 「そんな、名前に面白いとかつまらないとかあるものなの?」 「だって、僕の名前、颯太、だよ。ありがちだよ、つまらない」 「いいじゃん、似合ってるよ颯太」 「やばい、そうやって呼ばれると鳥肌立ってくる」 「颯太、颯太、颯太、颯太」 「やめて、僕が恥ずかしくて死んじゃいます」 「へへ」  彼が両手で顔を隠すその姿が最高に彼らしかった。これからは颯太って呼ぼうと心のなかで決めた。わたしは幸せで満たされに満たされていた。  颯太はなんか眠くなってきたと言って、ぼーっとしながらポテトを貪るわたしの肩に寄りかかってきた。わたしは漫画みたいだなと興奮し、はたして颯太が無自覚のうちにこの行動をしているのかを疑った。彼の本心が知りたかった。 「今日はいつもと違う感じなの?」  と聞いた。彼は答えなかった。答えたくないようだった。  長い間沈黙は続いた。寝息は聞こえなかったけど、寝てしまったのだと仮定してわたしのベットに持っていこうと思った。ちょうど最後の一本を食べ終わったので、最終確認として彼の方を向いた時、颯太はタイミングよく起きた。そして上半身を滑らかすぎるほど綺麗に動かしてわたしと目が合う位置まで顔を持ってきた。  そのまま止まることはなく颯太の鼻先とわたしの鼻先がぴとっとついた。彼の冷たい息を感じながらそのまま何かが起こることを待った。わたしの頭は魔女が毒薬を作るみたいにぐちゃぐちゃに混ぜられた心地だった。  颯太はだんだんと顎を上へ持ち上げた。わたしは口をぎゅっと閉じた。  そして颯太は接吻をした。彼とわたしの脂っこい唇は確実にお互いを捉えてずっとくっついていようとした。なるほどこれが愛か、と思った。体は天へと羽ばたきそうだった。その数十秒はまさに永遠であった。  唇をゆっくり離して、颯太をはっきりとじっくりと見て、彼の果てしない色気を感じた。颯太はたくさんの引き出しを持っていた。 「これ、ファーストキスなんだよね」  彼はうれしそうに言った。 「わたしも」  二人とも何も見ることができなくなっていた。下を向いた。ああ、こんな時にどうすればいいか三人から聞いておけばよかったな、わたしより何十倍も上手そうだったし。わたしは、馬鹿と溜まっていた息を吐き出すように言った。さすがに地獄耳の颯太も聞こえないようだった。  物事は移ろい続けていっていずれ無常感を感じるのだとどこかの誰かから散々言われてきたけれど、今日ならその意見を論破できるだろう。それくらいに思い出となり死ぬまでわたしを支えてくれるであろう特別な日になった。颯太もわたしも一皮剥けたような気がした。
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