1 フルハーネス殺人事件

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1 フルハーネス殺人事件

1 フルハーネス殺人事件 始発電車が郊外から都心のターミナルに向けて進行しながら、大きく右方向に曲がった時だった。 運転手は線路を跨ぐ陸橋から黒い物体が線路の上に垂れ下がっているのを発見した。 「まずい、このままだとぶつかってしまう」 運転手は慌てて急ブレーキをかけたが電車の先頭に物体が当たってサンドバッグを叩いたような鈍い音がした。 と同時に、電車のフロントは真っ赤になり、車輪とレールの擦れる金切り音を上げて30m走って止まった。 運転手は我に返り、マイクを握った。 「ただいま、陸橋から垂れ下がった物体に衝突しました。 急ブレーキで怪我をなさった方がいましたらお知らせください。 ただいま車掌がみなさまの安否確認に参ります。 電車は、鉄道警察による現場検証を行いますので、しばらく停車いたします。 振替輸送できるよう、連絡いたしますので、しばらくお待ちください。 決して、電車から、線路に降りないようお願いいたします」 運転手は窓から体を乗り出すと後方を見た。 線路を挟む陸橋から男がぶら下がった状態になっているのが見えた。 車掌が最後部の車両から、乗客の無事を確認しながら、先頭車両に来た。 「人を撥(はねる)ねてしまった」 運転手は困った様子で言った。 「何ですって」 「ドアから後ろを見てみろ。陸橋から飛び降りたみたいだ」 「飛び込みですか!」 車掌はその言葉で、窓から後ろを見た。 車掌は陸橋からぶら下がった物を見た。 男性に見えた。車掌は、我に返って、車内の状況を運転手に報告した。 「社内を確認したら、5人の方が急ブレーキの時に席から放り出され、手足腰を痛めたようです」 「本部、A地区の陸橋から男性が飛び降りてぶら下がっています。 先頭車両に衝突したので男性は即死と思われます。 急ブレーキで5人の方が怪我をされたようです。 至急警察と、救急車、代替えバスを手配してください」 運転手が報告した。 「一番怪我のひどい人は?」 運転手が車掌に言った。 「70代の女性です。腰を打って立てないようです」 「骨折しているかもしれないな。すぐ、乗客のところに戻ってくれ。 代替えのバスを手配したので、車内から動かないように再度お客様に伝えてくれ」 車掌は頷くと、大声で、各車両を回り、再度安否確認をしながら、後尾車両の婦人のところに行った。 車両は駅と駅の中央で止まっていた。 線路わきに警察車両と救急車が駆け付けた。 須藤課長と中山刑事が車から降りると、手袋をして、線路に踏み入った。 二人は陸橋の前に行った。 背広の上にタスキ掛けの帯のような物をした男が、陸橋からぶら下がっていた。 電車の衝突で今もその体は左右に揺れている。 苦悶の表情をした男性の目は飛び出している。 「中山、無残だな。電車と衝突してかなり出血している」 須藤課長が言った。 「おい、すぐブルーシートを張るんだ」 須藤課長が怒鳴った。 警察官がブルーシートを陸橋と、止まった車両、遺体の周囲を囲った。規制線も遠巻きに張られた。 報道陣も列車から50m以内に近づけないようにした。 「おい、すぐ、男性を陸橋から降ろしてやれ。なんで早朝に自殺なんてするんだ」 須藤課長は腕時計を見ながら言った。 鑑識は陸橋に行くと、陸橋に結んだロープ、その周辺、陸橋から被害者を見下ろした写真などを撮ると、陸橋周辺の微物を採取して、男性を陸橋から降した。 男性が線路に横たわると、直ちにブルーシートで覆われた。 男性は背広を着た40代らしき男性だった。 髪は、オールバックで左手に高級時計をしていた。 顔は電車と衝突して潰れ、上半身は鮮血で真っ赤になっていた。 「おい、この男性の自殺おかしくないか?」 須藤課長が言った。 「なぜですか?」 中山刑事が言った。 「自殺する奴がパイロットのようなたすき掛けの帯をするか? 誰か、この帯知ってるヤツはいないか?」 須藤課長が言った。 「フルハーネスですね」 刑事の一人が言った。 「フルハーネス?  何ですかそれ?」 中山刑事が言った。 「建設現場とかの高所作業では、落下防止に胴綱をするんです。 ところが落下したショックで、体は九の字のように曲がり、内臓を損傷します。 そのために、飛行士が着用するような、上半身をタスキ掛けのようなベルトで固定する。 ショックが分散されて、脊椎、内臓のダメージが少なくなるんです」 刑事は以前建設現場の事件を担当していたので知っていたのだ。 「ということは、被害者はフルハーネスに精通している者?  建設業とかになりますかね」 中山刑事が言った。 「中山、そうとは限らんぞ」 須藤課長が言った。 「須藤課長、フルハーネスの背中にロープがついてますね」 「落下した時の命綱になるはずのロープです」 先ほどの刑事が言った。 「自殺する人が、フルハーネス付けた理由は何ですかね?」 中山刑事が言った。 「わからん。中山、フルハーネスを外してやれ、それから背広のポケットも調べろ」 「え! 俺がですか?」 「仏さんが怖いか。言ってみただけだ。鑑識! フルハーネスを外して、背広のポケットもしらべてくれ。財布があれば免許証で身元がわかるかもしれん」 須藤課長は鑑識に言った。 「財布はないか」 「財布はありません。腕時計はロレックスですよ。 物取りなら、時計も奪うんじゃないのかな。身元がわかるものはないですね」 鑑識が言った。 須藤課長は苦虫をつぶしたような顔になった。 「中山、本庁の青木を呼べ。富浜署では解決できないかもしれん」 須藤課長は唸った。 20分後青木美子刑事と本庁の刑事たちが到着した。 「須藤課長、中山刑事、お久ぶりです」 美子たちは、ブルーシートで囲われた中に入り、該者を丹念に調べた。 「これは単なる、飛び降り自殺じゃない。 殺人事件だわ。 しかも電車と衝突しても首が飛ばないように、フルハーネスを着用させたのよ」 中山美子刑事が言った。 「どういうことですか」 中山刑事が言った。 「首つり自殺なら、ロープを首に回して、端を陸橋に結んで飛び降りるでしょ。 飛び降りた瞬間、自重で首の骨が折れて、数分で息が途絶える。 ところが、被害者はフルハーネスを着ている。 ロープは背中の中央部に装着されているから、陸橋から飛び降りても、首が折れる事がない。 列車に衝突するまで生存していた可能性があるのよ。被害者は始発電車が迫って来た時、恐怖で震えたはずよ。自殺する人がそんな苦しい死に方を選ぶかしら」 美子は須藤課長向かって言った。 「そうかもしれないな」 須藤課長が頷いた。 「身元は分かったのですか?」 美子が言った。 「いや、まだだ。高級なロレックスをしているのに携帯電話も、財布もない」 須藤課長は頭をかいた。 線路わきには早朝だったが、野次馬や報道各社が集まった。 警察ヘリと報道ヘリが現場に到着して上空で輻輳した。 テレビでは実況中継が始まった。 「陸橋から男性が飛び降りて始発電車にぶつかった模様です。 男性の身元についてはまだわかっていません。 ○○線は運休していますので通勤の方は迂回をお願いします。 実況中継するアナウンサーが言った。 先頭車両の50m範囲は規制線が張られ、陸橋、先頭車両、遺体はブルシートで覆われた。 8e01da9a-2719-41c3-8dc0-1d23d9944777
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