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松江にて
夕立は止んでいる。雨音がしない。
ラフカディオの前の女は……いや、おそらくそれはロバートなる何かだったにちがいないのだが、ラフカディオが子どもの頃の友達に関する事件を回想している間、一言も喋らなかった。
「ロバート、きみなんだね?」
ぼそりとラフカディオは言った。
すると、女は笑いながらこくりと頷いた。女に扮しているのが、あのロバートなら頭のなかで会話しなくてもいい。
「……今ごろ、左眼を返してくれても、遅すぎるよ。それに、ロバート、返してくれるにしても、また、条件付きなんだろ?」
「パディ、ただ眼を返すというんじゃないのさ、返してあげたとたん、もう一度、あの神学校からリ・スタートできるんだよ。まったく違う人生を送ることができる……それでも、イヤなのかい?」
そう告げられて、ひさしぶりにラフカディオは迷った。やり直しできるのなら、やりたいことはいっぱいある。
でもね、とラフカディオは鼻で笑った。
「ロバート、せっかくだけど、お断りだ。……あのとき、きみに左眼を盗られたおかげで、どれほど心に苦痛を強要された人生だったかわからないほどだよ……でもね、それはそれで、他の人には経験できないことだったからね。物書きとしての原点だったかもしれないし。それに……いまのぼくには死ぬまでに書いておかなくっちゃならないことがいっぱいで、そんな些細なことなんかにかまってられやしないさ」
( 了 )
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