ベンチの主

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ベンチの主

 このベンチから動きたくない、と切実に思った。  帰ったって、ろくに片付けもしてない埃っぽい部屋には誰もいないし、ただ惰性でシャワーを浴びて、スマホを眺めてたら寝落ちして朝を迎え、慌てて会社に行く繰り返しが始まるだけなのだ。  そんな思考に囚われ、じっとりとした空気も相まって、ベンチに張り付いたように、動けない。街灯に虫が集まって、耳障りな羽音を立てる。もう、夜が深い。  ぼーっと放心して、不意に、左側の視界の端に、何やらそれなりに大きさのある黒い物体が映る。恐る恐るそちらを見ると、痩せた黒猫であった。こちらのことなど気にせず、毛づくろいをし、どさりとベンチに横たわる。  首輪はない。ややボサボサの毛並みからしても、野良猫だろう。人なつこさというより、人など気にしないふてぶてしさを感じた。人の間で揉まれて仕事をしている身としては、なんとなく、面白くない。単なる八つ当たりだった。 「いいね、一日こうやって寝てても大丈夫なんだから」  ジロリ、と薄目で睨まれる。 途端に、面白くなさが萎んで、猫に当たって何やってんだ、という自己嫌悪がじわじわ広がる。 「……ごめんね、猫だって、色々あるよね」  しばしの沈黙の後、フン、という鼻息を耳がキャッチした時、ようやく、腰をあげた。 「また来ていいかな」  横になりながら伸びをした黒猫は、当然返事なんかしなかった。だから、勝手に自分に許可を出した。  それ以降、会社帰り、一人暮らしの部屋があるマンションの目の前の、小さな公園のベンチに顔を出すようになったのは、そういった経緯からであった。黒猫は最初からベンチに寝転んでいたり、途中から来ることもあった。彼のお気に入りなのだろう。  入社して三ヶ月、ちっとも成長できていないと感じる孤独。  望んで入社したはずなのに、気がつけば周りに取り残されている気がしていた。  ただの独り言を、黒猫と相席するベンチでポロポロと零す。それだけ。  黒猫は何も話してくれないし、頷いたりもしないのが、ちょうどよかった。慰めや助言はいらない。無心に、凝ったものを吐き出せるから少しだけ楽になれるのだ。  たまに、「野良生活はどうなのよ、ちゃんと食べてんの?」なんて、黒猫に絡んだりして、お約束のように睨まれたり、無視されたりするのを「なんだよぉ」と冗談で咎めたり、そっとごわついた毛並みを指先をで整えたり(何回か引っ掻かれそうになったが、そのうち諦めたのかされるがままになっていた)して、ノロノロ立ち上がって帰る。そんなルーティンが出来ていた。 「じゃあね、おやすみ」  別れの挨拶は、返事はないけれど、愚痴やウザ絡みに付き合ってくれたお礼の意も込め、毎回言うようにしていた。  ……にゃぁ。  振り返ると、何もありませんよと言わんばかりにすました黒猫が、そっぽを向く。  通りすがりの人に見られたらとか、ご近所迷惑ではとか、そんなことは頭に浮かばず、その様子がおかしくて、声をたてて笑ってしまった。その時から、おやすみという言葉に、返事をしてくれるようになった。  そろそろ秋から冬になりかける日、いつものように、公園を訪れる。今までは持っていなかった、煮干しや猫用おやつを持って、腰掛ける。  管理会社に聞いたら、大丈夫だったよ。寒くなる前に、うちにおいでよ。  来たら、おやつを差し出して、そう言うつもりだった。  けれど、待っても、探しても、どこにも、いなかった。街灯の届かない闇に、溶けてしまったように、唐突だった。それ以降、ベンチの黒猫は姿を見せなかった。  二年前、そうして夜の話し相手がいなくなってからも、私は今の会社で編集者を続けている。あの頃、全部ではないけれど、溜まり続けたものを吐き出して、どうにか踏ん張ってきた。  こんなご時世、直接作家と打ち合わせすることも減って、メールや電話、リモート打ち合わせで済ますことが格段に増えた。  今日、パソコンの画面を通して打ち合わせしているのは、最近デビューした新人作家。デビューのきっかけになった、我が社の文学賞を受賞した短編小説を含む短編集が間もなく発売される。彼女にとっては初めての著書だ。優しい筆致で物語を紡ぐ彼女は、合理的かつさっぱりしていて話がしやすい。 「あ、こら」  画面内を、突然、黒猫が横断した。わずかに、ドキリとする。 「すみません、うちの猫が」 「たしか、保護猫だったっていう……」 「そうです、タンゴっていいます」  タンゴと呼ばれた黒猫は、パソコンを置いた机に座りこんだようで、私から見て画面の左端で、ふんふんと鼻を動かしている。 「毛並みもつやつやで、かわいいですね」 「いや〜、基本的に塩対応なので」 「ふふ」 「でも、何故か、おやすみって言うと返事してくれるんですよ。それがかわいいんです」  ……ああ、覚えていてくれたのか。  画面越しの黒猫が、ベンチの黒猫かどうか、本当のところは分からないけれど、ほとんど確信していた。  よかった。あなたが元気でいてくれて。本当によかった。 「優しいですね」 「そこだけですけどね」  画面越しに、照れた笑みを浮かべる彼女の手を、見慣れていた前足がペチンと叩いた。
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