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いまごろ彼女は深海にたどり着けただろうか。
岸壁に停めたミニバンの運転席からおだやかな水面を眺める。湾の遠く向こうでは対岸の街の明かりが輝きはじめた。赤々と燃える夕焼けを山の稜線へと追いやって、空に深い群青が広がって行く。星が出ていると思ったけれど、飛行機の尾翼のライトだった。
運転席のサンバイザーのポケットに手を伸ばす。挟んであるのは、今週末に二人で行こうと話していた水族館のペアチケット。
「深海魚が見たいな。あたし、好きなの。深海魚って」
そう言うから用意したものだった。
今朝、まだ空に夜の色が濃く残る頃、アパートを訪ねたら彼女が倒れていた。
真夜中から一方的に何十通と投げつけて来た自暴自棄なメールどおり、部屋のなかはぐちゃぐちゃで服や鞄、メイク道具や細々とした雑貨で足の踏み場もなかった。ひっくり返ったゴミ箱のなかから、これみよがしに飛び出している薬の空き箱が散乱している。
付き合ってから何度も見たことのある光景だった。
衣類の山に埋まるように横たわっている彼女のそばに座り込んだ。
青白い頬に、長い睫毛を伏せた目元には薄く隈がある。紫色の唇はからからで、伸びっぱなしの髪に艶はない。眠り姫と呼ぶにはあまりに生々しかった。
こうなる度に救急車を呼んだり、車に乗せて病院に連れて行ったりしてきた。仕事を休んで、用事をキャンセルして、心身のケアに努めた。彼女が落ち着けるように充てられる時間をすべて充てて、求められるまま寄り添ってきた。
ぼくは、彼女のために出来ることを精一杯していると思っていた。
けれど彼女は不貞寝感覚で何度も何度も中途半端に死のうとする。
もしかしてぼくがしてやれることは、これまでしてきた事とは、違うのかも知れない。
テレビラックに置かれた魚の人形が視界にはいる。
カプセルトイの小さなフィギュアで、うっすらと埃を被っていた。頭部が透明で、緑色のピンポン玉みたいな眼球とまわりの器官が丸見えという、不思議な造形をした深海魚だった。
散らかった部屋の片隅からいままで見守ってきたその姿が、ぼくに何かを教えてくれた気がした。
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