白いワンピースの裾が汚れている

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 いつの間にかアスファルトの舗装がなくなっていて、砂利道を歩くのに慣れてきたころ、屋根の崩れかかった一軒家を見つけた。なかに人が住んでいる様子はなく、最近車が通ったような形跡もなかった。廃墟なんだろうなと思った。 「上がらせてもらおう」  彼女は小さく一礼したあと、玄関に足を踏み入れた。彼女の後に続いて段差に足を乗せると、ぎしっ、音がして床が少しだけ沈み込んだ。家の中を見回しながら歩いていると、奥から「はやくおいで」と猫を誘うみたいな声がした。彼女は縁側に座り、足をぶらぶらさせて遊んでいた。隣に腰掛けると、彼女が僕の肩に頭を乗せてきた。僕もそちらへ頭を寄りかからせる。彼女のつむじは熱くて、いい匂いがした。 「ねえ、天国ってあるのかな」 「どうだろう」  昔の人は都合よくものを見すぎている。もし彼女が死後幸せになれると信じて死んだのでは、あんまりだと思う。彼女みたいな苦しんだ人間だけでもいいから、救われるという保証がほしかった。 「ねえ、君は、死ななくていいよ」  一瞬、心臓が針でつつかれたように痛んだ。「いや、だって」「生きてよ、君は」「でも」、でも、僕にできるのは彼女が寂しくないようにずっと側にいてやることくらいだった。僕は彼女のことが好きだった。 「あのね」  彼女がそう言うのと同時、ぴたりと蝉の声が止んだ。僕はそこで初めて、今年も蝉が鳴いていたことに気づいた。 「うん」  生きてるってなんだろうと思った。大きな死体になるために日々食事を摂り、酸素を吸っているような気がしてきた。生きた結果、僕たちは何になるのだろう。 「君が私を幸せにしようとしてくれたこと、本当に嬉しかった。私、それだけで幸せだった」  唐突に、昨夜は上手く眠れなかったことを思い出した。ずっと、彼女をどうしたら救えるのかわからなかった。側にいれば紬は幸せと言ってくれるかもしれないけど、それだけで紬がいままで両親から受けた暴力や暴言を彼女自身が上手く消化できるわけではなかった。苦しまずに済むわけではなかった。僕は何も言えなかった。ワンピースの裾が汚れていた。 「私は君のことが本当に好き。でもね……」  紬が言葉を止めてからしばらくの間、静寂の音がした。何度も自分の心を殺してしまったから夢が見られないのだと思った。 「……でもね、君が私を好きなのは、きっと、気のせいだよ」  少しだけ強い風が吹いて、地面で寝転がっていたちいさな砂の粒子たちが、ふわり、風に乗って空中に飛び上がった。その瞬間、粒子たちが太陽の光を受け、ぶわっと視界が広がったみたいになった。 「気のせいじゃ、ないと思う」  彼女は僕の肩から顔を上げ、まん丸の目でこちらを見たあと、それから悲しそうに笑って、「悔しいなあ」と小さく呟いた。目から顎にかけてゆっくり伝っていった雫が、彼女の苦しんだ証そのものだと思った。 「なんだか、今ならいい夢が見れそうな気がする」  彼女はそう呟くと、それきり何も話さなくなった。おやすみ、そう言おうとしてやめた。ぼうっと遠くの山を眺めているうちに、となりから小さな寝息が聞こえ始めた。彼女を横にして、それから自分も隣に寝そべった。風が優しく髪を揺らしているのが心地よかった。
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