第四章

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ひらりと一枚、桜の花弁が目の前を横切った。 「あ、」 一本の桜の木が、堂々たる様で立っていた。わんさと花の咲いた枝が揺れる。 「まあ、綺麗」 「これはこれは、なんとも美しい!」 「すごい……」 周りにビルなどいらないものがない分、ただただ見事な桜が青い空によく映える。鳥たちが忙しく花々の間を飛び回って蜜を吸っていた。こんなに見事で完璧な桜は、初めて見た気がする。この桜は、きっとずっと忘れないだろうな、とまで思うような桜だった。どれだけ美しい桜も、風景も、スマホでパシャリ。写真は見返せるけど、見返さなければすぐに忘れてしまう。でも今は、そんなものはない。この記憶に焼き付けるしかないのだ。けれどその分、この美しい桜はずっと記憶に残る。牛車を下りて桜の下へ向かう。本当に綺麗だ。木の下から見上げると、桜と青空だけ。周りにビルなんかはないが、花と空は、ずっと変わっていない。今ここだけ、私の見ている部分だけ元の時代に戻ったような気さえする。 ずっと、これでよかっただろうに。豊かな自然に囲まれている方がよっぽど生きていると思える。冷たいコンクリートの林で山々を切りくずし、それで豊かになれると思っていたのだろうか。経済的にはそうなれるかもしれない。でもコンクリートや様々な機械に囲まれ、いつしか自分さえも機械になってしまう。私だってきっと、ずっとあの世界にいれば、なんとなくどこかの企業に就職して、機械になっていた。そんなの嫌だ。でも今、どうだろう。私は姫君という人形になってはいないか。いや、それが嫌で今だに結婚を拒み続けているのだ。帝とも政についての話だけで、あまりこちらには踏み込ませないようにしている。私はこの時代の鎖にも、元の時代の鎖にも縛られたくなかった。ここにずっといたいとも思わないし、戻りたいとも思えない。私は何がしたいのか。踏みかためられた道も、未開拓の道も歩きたくないなら、やめるしかない。それか、覚悟を決めるか。どっちもしないまま、ずっとここにいられればいいのに、と目を閉じる。ほら、自然はずっと変わらない。 「姫様、何かお食べになりませんか」 目を開けると眩しい。 「はい、いただきます」 二人で桜を眺めるお爺さんとお婆さん。山に住んでいた二人は、どういう行きさつで結婚したのだろう。やがて自分がおばあちゃんになった時、愛する人が隣にいて、この二人のように仲睦まじく平和に暮らしていられたら。そんなことを願いながら二人の所へ向かう。 「せっかくここまで来たのだから、秋田様の所にお寄りしてもいいかもしれんな」 「突然伺っては困らないでしょうか」 「大丈夫だろう、長居するつもりはないからな」 その会話を聞いて、ふと思い出す。斎部の秋田、だっただろうか。その名の前に何かついていた気がする。 「あの、秋田様は、何の斎部の秋田様だったでしょうか?」 何の、だなんてかなり適当な質問だが。 「御室戸、です。ここ三室山のことですね」 ああ、そうか。頷いて、周りを見渡す。ここにも、そこにも、少し遠くにも、見える桜。牛車で長いことかけて来たここは、元の時代でも桜の名所、三室山だ。車でなら三十分程度なのに。道路や交通手段が整えられていないというのはこういうことだろう。樹齢千年を越える桜なんてないだろうし、伐採されたりもしたのだろうが、千年以上たった後も、今も、人間が同じようにここで桜を見上げているのだということが、妙に感慨深かった。
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