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まるで助走をつけるみたいに、ポツリポツリと雨が降り始めた。アスファルトを黒く染める雨粒は大きかった。遠くに雷の光が見える。
「やべぇ。」
声は雨音にかき消された。泰介は走りだした。傘はもって来なかった。こんな時にローファーというのは都合が悪い。ランニングシューズだったら雨雲を追い越せただろうか。泰介は水溜りを弾きながら荒川沿いの歩道を思いっきり走った。学ランの裾はきっと泥だらけになるだろうけれど、何だかどうでも良くなってくる。
周囲をぐるりと山に囲まれた熊谷は、まるで街全体が水溜りのようだ。山に降った雨水は川に運ばれて平野に集まってくる。
河川敷の高い道を降りると、眼下にはだだっ広い田圃が雨に打たれているのが見えた。泰介の家はその田圃の先の染みみたいな住宅街にあった。最短距離で帰るには畦道を突っ切るのが早い。泰介は勢いを殺すことなく田圃の真ん中を走った。髪を濡らした雨粒が額を伝って落ちるが、走る泰介にはそれすら心地良く感じた。
畦道にポツンと一本の木があった。古く大きなクヌギである。葉は広く茂り、樹の下は雨に濡れずに済んでいるようだ。泰介は息を整えようと葉の下に逃れようとする。クヌギの下には青いプラスチックのベンチがあって、そこには先客がいた。大学生くらいだろうか。泰介よりは少し年上の、しかし若い女であった。
泰介はスポーツバッグからタオルを取り出して、短い髪の毛を拭いた。ベンチの女は泰介を一瞥して、また何処かに目線を移した。雨の音に囲まれて、クヌギの木の下は閉ざされた密な空間となった。雨が止めば消えてしまう空間だが、もし止まなければずっとそこに閉じ込められてしまうような妙な緊張感があった。
「凄い雨ですね。」思ったよりも声が響いて、泰介は女の方を横目で見た。白のTシャツから細い肩を露わにした女は「そうだね。」とだけ言って、ベンチの上で腰だけ浮かせて泰介の座るだけのスペースを空けてくれた。
「君、高校生?」
「はい、熊高の3年です。」
「ここ、何か落ち着くね。」
女はナナミと名乗った。東京の私大に通っていて、今は下北沢に住んでいるらしい。熊谷に実家があって、夏休みの間は暫くここで過ごすのだと言う。
「でもこんなところに何でベンチなんかあるんでしょうね。何がある訳でもないのに。」
「それはさ。きっと何かあるんだよ。こんなところにポツンと木があってさ、ベンチがあるんだから。」
ナナミが不意に立ち上がった。雨は止んでいた。雲の切れ間からオレンジ色の光が差す。風景は濡れて艶やかに光り、ナナミの顔を照らした。クヌギの下の空間は消えてしまったみたいだ。鳥の鳴き声が聞こえ、土の匂いが立ち上る、
ナナミは立ち去るとき「またね」と言った。また会うことがあるのか、泰介には想像がつかなかった。たまたま夕立に遭って行きずりになっただけなのだ。泰介はベンチに座ったまま、陽が落ちるまで山の端を眺めて時間を潰した。この場所にはきっと何かがあるのだとナナミは言ったが、泰介にはやはり何もないように感じるだけだった。
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