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「では夢の続きを」
涙で頬を濡らす自分を背にすると緩やかにバッヘルバルのカノンを弾き始めた。
美しい旋律が店内に流れる。突如、隣の席の男がもがき苦しみ出した。慄く自分の目の前でみるみる赤く腫れてゆく男の顔。両手で押さえた頬の皮が裂けた瞬間、熟れたトマトが弾ける様にグシャッと床に崩れ落ちた。一つの悲鳴の始まりと共に店内の客全てが体内から放つ赤に染まってゆく。
鍵盤の上に両手を疾らせる男は神か悪魔の様に諭した。
「死の瞬間こそ生命の歓喜」
クライマックス。男は滾りの限りを鍵盤に叩きつけた。震える空間。上昇する体温。音霊の雷が落ちた瞬間、目の前が赤に包まれた。
......夢よ、覚めてくれ。
──如何でしたか?
誰かの声が自分を呼び覚ました。
がばりと身を起こすと店内は錦秋の平穏な昼下がり。あの男の姿は無い。
ふと視線を感じて首を上げると窓際席に座る黒髪の女がティーカップに口をつけ微笑みかけている。
驚いた。いつの間にか女が書き込んでいた文庫本とアイスコーヒーが紅茶と入れ替わっている。
文庫本の表紙にあの男の姿が載っている。しかも『夢売人』というタイトル付きで。
自分は慌ててページを一枚捲る。先程迄の奇怪な出来事が全て鮮明に描かれている。これは一体どういう事なのだ。ペンを持たぬ方で手招きする黒髪の女の姿が自分の頭の中で浮かびあがった。
──さあ、次のページへどうぞ。
夢はまだ終わらない。
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