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3-1.籠の外
ルクレシスの脆弱な神経はすでに限界を迎えていた。意識を保っていることが難しい程だ。しかし、退席することも、目を反らせることはすでに紫水の宮にきつく諌められている。
ただ茫然と目の前に広がる世界を観ているだけであった。
先の事件に何らかの形で関わった者達が断罪されていく。紫水が読み上げる罪状と判決文に、無罪を必死で主張する者、泣いて許しを乞う者、罵詈雑言を吐く者、すでに疲れ果ててか生気のない者、それぞれへの刑が粛々と進められていく。
斎場には異様な空気が籠っていた。周りを囲う民衆は自分達を奴隷の身分に落とした為政者に口々に罵りの言葉を投げつける。
今日設えられた斎場は今回の反逆の最後の審判の場であり、首謀者級の者達の刑の執行で、もちろんのこと全員が死罪であった。すでに過酷な尋問を受けたであろうことが一目で分かる姿で刑場に引きずりだされる囚人に民衆が死刑を求めて叫ぶ。そうすることで隣人に皇国への忠誠を必死で示すのだ。
奴隷となった彼らにとって、この時は労働が免除される貴重な日であり、もはや一種の祭りだ。
「皇の秩序を体現し、審判を下す者が目を背けてはならない。」
ルクレシスにとっては異様すぎる光景だった。狼狽えるルクレシスは、皇の治世を守るために宮としての務めだ、体現者が迷ってはならない、と紫水の宮に念を押された。
刑が執行されるごとに上がる歓声。身体に染み付いた血臭と瞼に焼き付いた血のどす黒い赤。もはや目を閉じても生々しく迫ってくるほどだ。
午前中に視察に訪れた作業場でも、陽の季節の灼けつく太陽の下で男達が虚ろな目をしながら、牛馬のごとく石を牽いていた。ルクレシスがこの地に来た時には、貧しくても自由に往来を行き来し、めいめいの仕事をしながら生活していたはずだ。大逆とはいえ、老若男女全員が連帯責任で奴隷の身分に堕ちる過酷な処遇に疑問を覚えざるを得ない。
「なぜこの地方の民が貧しかったか分かるか?」
隣に立つ紫水が納得いかぬ顔をしているルクレシスに問うた。
「災害が多いと聞きました。」
「そう、蓄財しても、開墾しても高波に攫われて意味がない。むしろ塩害などで使えぬ土地が増えていく一方だ。だから、国家的普請事業が必要なのだ。」
これまで堤防の必要性は幾度となく唱えられてきたが、元々が海の民であったリタ族は腰を据えて住むということのない民だった。日々の恵みは海から与えられるものとして、その日の糧を得ることを中心に、魚の獲れる場所を目指して点々と住処を変える民である。十年後、二十年後の厄災に備える性質の民ではないのだ。
帝国や皇国に支配されるようになり、都市化の流れが押し寄せはしたものの、元々その日暮らしで貧しい土地柄のために男たちが漁業の手をとめて堤防作りに精を出すこともなかったのだ。
何より海の民たるリタ族は堤防を作ることで潮の流れが変わることを恵みの海への冒涜として忌避してきていた。海は生命の胎であり、生命を生み出すものであり、かつ飲み込むものである。だから海から与えられた分、海に奪われることを享受するという、土着の信仰が残っている。
「人間は豊かになるために心血を注いできたというのにに、なんと原始的な民族だ。文明化せぬから、怪しき邪教が蔓延る。」
監督官がのろのろと石を運ぶ奴隷を怒鳴りつけている。
「奪われぬよう、むしろ奪うために人は自然を征服してきた。ここは五十年かけて沿岸部を囲む堤防が建設され、貿易港が開かれる。堅牢な堤防に護られた大陸南端の最大貿易都市になるだろう。」
土着の宗教は淘汰され、新たな文明が発達する。
「瑠璃の。我々はもう後戻り出来ぬ。今更火石のない生活には戻れぬ。戦争では火石でより多くの将兵を焼いた国が勝つ。」
紫水の宮の言葉は目の前の光景に圧倒されているルクレシスを諭すように重ねられ、一方で自身に言い聞かせるかのようだった。
「…では、火石が無くなったならばどうなるのでしょうか?」
ルクレシスはずっと抱えてきた疑問を仮定として口にした。
「さあな。そう遠くもないだろうとは、どこも気がついているはずだ。どこの国も秘密裡に火石に代わる物を探している。ランス国を食い尽くした後、新しい火を独占したところが大陸の覇者となる。」
紫水の宮が幾分投げやりに答える。
新任の監督官が神経質に現場の細かな点に一々と注文をつけて回っていた。
「火石の毒についても各国はありとあらゆる研究を行なった。ランス国にとってその精製の技術は機密だが、その精製過程で生じる毒は猛毒だ。」
皇国でも火石の原石を手に入れて、精製を試みたが、早老症のような症状、健康な成人男子が血を噴出させて急死するなど、解毒方法はついに分からなかった。
「だから、ランスの谷に毒を押し込めることにした。」
「それでは…まるでランスの民は…」
ルクレシスの声が震える。
「そう、世界の奴隷というわけだ。いや、生贄か。」
「…」
紫水の言葉に答える言葉が浮かばなかった。
多数に幸にための少数の不幸。
『贄』
『お前が望むなら、お前の責は我が負ってやろう。』
『そんな国でもお前は引き受けるか?』
天中節の皇の言葉がぐるぐると頭の中を巡る。吐き気がする。
「瑠璃の、解っているだろうが、お前は今、皇の名代としてここに居る。無様なさまは晒すなよ。」
紙のように白くなっていくルクレシスに紫水が顔を顰めて釘をさす。
ルクレシスはそれから、ただ目の前で広がる惨劇を愚かしくも放心しながら観ているだけになった。
今だれが死刑宣告を受け、首を落とされたのか分からない。ルクレシスの頭の情報伝達機能が壊れてしまったように、さっき死んだはずの神官が生きていて、ルクレシスの目に前でがなり立てたり、踊り子が無知なルクレシスを馬鹿にして哄笑したり、思考が滅裂化していく。
(還りたい…還りたい…還りたい…)
ルクレシスの身体も心も魂までも縛り付ける皇の束縛の中に還りたい。ただ皇の体温だけを感じて、気を失って、何も考えない世界に篭っていたい。
得意だったはずの魂を飛ばす方法も分からなくなっていた。現実と幻覚が混じり、そこから逃れられない。
血の気を喪ってかたかたと震える手足のままルクレシスは最上段で座し続けた。
全ての審判が終わったのは陽が西の海岸線に落ちようという時であった。西日のきつい光で斎場の全てのものが不穏に長い影を伸ばしていた。
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