3-2.慕情

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3-2.慕情

 黒曜は執務の終わりに机上に散らばった文書を片していた。拾おうとした文書にかざした手に早文が投げられ、皇の不機嫌さと、その不機嫌さが投げられた文にあるのだと、盲目ながら悟る。  わざわざ黒曜に知らせるように投げて寄越されたので、首を傾げて、何かと伺う。首をかしげると黒曜の漆黒の細絹の髪がさらさらと肩を滑る。 「紫水が瑠璃を粛清に立ち会わせたらしい」 「なるほど。瑠璃の宮はお健やかで?」  皇からの応えはない。応えが無いことが応えと心得ている黒曜は口の端を上げて苦笑する。 「冰から皇都まで最短距離でも荷馬車で十日ほど。お帰りになる頃には瑠璃の宮のお気持ちも落ち着かれましょう。」  皇が居ないうちにと紫水の焦りが見えるやり方だ。寵童が過保護な皇と離れた隙を狙って、箱入りの子に社会見学をさせたらしい。初心者の公務が死刑場とは全く世慣れていない瑠璃の宮には刺激がさぞ強かったであろう。今頃熱に魘されているのでは無いだろうか。  黒曜自身、残虐なことが平気というわけではないが、皇の秩序を乱す者はすべからく抹消されるべきだと考えているし、その為に必要であれば処刑をも厭わない。政治上、皇敵に対して容赦のない様は戦場で幾人と刃を交え切ってきた赤水が引き攣った声で「えらく入念だな…」という程に徹底的に糾弾し、倍以上の報いを受けさせる。 「帰都した暁には瑠璃の宮も役人として登用されてはいかがでしょうか?色々とございましたが行幸も立派に勤め上げましたし、然るべき役に付けられるのがよいかと存じます。」  例えば、今、黒曜が紫水の代理で勤めている内宮執務業なぞ、と付け加える。  皇の侍従長である紫水の仕事をこなすことは無理であるから、紫水の仕事のごく一部の皇の執務室内の内宮侍従として勤めるのが良いかと思う。大規模戦争が勃発したことで仕事は膨大に増えている。人手はどうせ増やさねばならない。たとえ書類を右から左に仕分けるだけでも助かると言うものだ。皇の機嫌取りに効果的な瑠璃が皇の側に侍っていれば内宮の面々も安心だろう。 (ただ、皇の機嫌を急降下させる才能もお持ちのようですが…)  しかし、たとえどんな地雷を誰が踏もうとも皇が不機嫌になった時、人身御供として瑠璃の宮が勘気を納めてくれると考えれば、なかなか良い配置なのではないかと黒曜も皇に進言しながら、妙案に思う。  皇は(おう)とも言わず、無言にままであったが、これ以上は皇のお考え次第だと、話題を変える。 「皇、今日は今年初めて仔羊を屠った晩餐を用意させて居ります。今宵は是非、我が宮でお過ごし下さいませ。」 「もう厄災祓い宵か。」  天中節から月の巡りが二回りの満月の宵は、厄災避けの生贄として仔羊の血を神々に捧げる厄災祓いの儀式が陰の神殿で行われる。仔羊を神殿に献上し、神官の手で血抜きと恵みの施して貰った後、仔羊に授けられた祝福を身体に取り入れる儀としてその肉を食い尽くす慣習がある。生贄を自前で用意出来るのは中流以上であるため、陰の神殿が用意し屠った仔羊の肉が市民への施しとして配られる。祝福を受けた仔羊の柔肉と酒で今頃、皇都中、お祭り騒ぎのはずである。  太陽の天中から二ヶ月経ち、いよいよ陽の季節の猛烈な暑さがやって来る。疫病が流行る時期でもあり、収穫の季節までの大切な季節でもあり、実際に仔羊の肉は豊富な栄養価があり、神殿から配られる羊肉は暑い季節を乗り越える滋養にもなる。  黒曜も古式に従い、日没に合わせて侍従長に神殿で仔羊の血を抜かせ、祝福を受けた羊肉を持ち帰らさせていた。 「最大の厄災が祓えるならば万の仔羊も屠ろうぞ。」  最高神たる皇が屠った羊のご利益に預かる必要もないのだが、後にまさに厄災の年と語られる今上皇の時代、羊でアデル帝国という厄災を払いたいものだと皇が口の端を歪めて嗤った。 「兵糧にした方がよほど有益でございましょう。」  皇の戯言に黒曜も戯言で返す。  皇にとっては関係のない儀式であると言っても、毎年、紫水か黒曜が奥宮で気の置けない皇と宮達の晩餐会として生贄の仔羊を用意し、宴を催すことが習いになってきていた。今年は皇と赤水は一足早く帰朝していたが、紫水と瑠璃は冰での残務処理のために厄災祓いに間に合わなかったことは残念だ。  黒曜は皇を自身の宮に招き、最高の葡萄酒と清められた羊の肉で皇の口を愉しませ、自身が選りすぐった楽師に器楽を奏でさせ、自らも詩を吟じ、皇をもてなした。赤水も堂々たる剣舞を披露し、気のおけない会話を愉しんだ。  満月も天中から降り始め、三人の会話が途切れたところで、散開の雰囲気となる。  赤水が立ち上がり、皇の供を呼び寄せようとし、皇も立ち上がる気配のところで、黒曜は皇を呼び止めた。 「今宵は我が宮でお休み下さいませ。褥も用意させております。」  艶然とした笑みで黒曜が皇を引き留める。それならば、と、皇もお気に入りの宮の誘いを受けた。  黒曜は皇の来訪に恥ずかしくない調度品を揃えた寝所に皇を案内した。 ****  黒曜が皇を伴って隣室に移動すると、残された赤水は邪魔者で一秒でも早く退散しなければ無粋というものである。  黒曜があからさまに皇を誘う婀娜めいた言葉に、赤水は知らずのうちに拳を握りしめて、黒曜宮を辞した。
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