3-2.慕情

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 赤水は夜半になっても熱気を孕んで不快な風に幾分苛々しながら奥宮の内廊下を歩く。  黒曜は遊女のように艶やかでありながら、下品なところは微塵もない完璧な皇の伽役だ。  この皇の奥宮で共に育ってきた誰よりも近しい存在であるはずなのに、どれほど遠い存在なのかを思い知らされる。黒曜のこの世の何も映さぬ瞳はただ皇のみを映している。  皇に向けた艶やかな黒曜の表情が脳裏に灼きついてしまって、変な熱が身体に残る。 「あーぁ。折角の祭日だし、俺も誰か呼ぼう。」  黒曜に当てられた熱を発散しないと身体に悪い、と一人ごちる。赤水は馴染みの男娼を何人か思い浮かべながら、自宮まで一人でぶらぶらと歩きながら帰る。  うろ覚えだが、いつも一人だった記憶しかない生家。使用人たちはたくさん居たが、仕えてくれても、誰も一緒になっては遊んでくれない。寂しいと思うより、ただただ毎日気ままに過ごしていた。誘拐の危険があったから、外に出ることは禁じられ、父親も母親も居ない広大な館が小さい赤水の遊具だった。窓枠よじ登り、屋根に登って寝そべると空に吸い込まれそうな気持ちになったり、硝子戸が硬質の音を上げて砕ける音の美しさ、乾いたマホガニーのテーブルを舐める炎の面白さを堪能していた。  突然両親が居なくなって、訳も解らぬうちに皇城に引き取られた時はさすがに勝手がわからず戸惑ったが、同じ宮だと紹介された黒曜に会って、赤水の世界は変わった。  初めて相対した時にはまるでお伽話のお姫様が目の前に居るようだと思った。艶めいた黒髪は細く繊細で何度も何度も染め直した黒絹の糸のようで、北方の血が入っているらしく皇国人にしては白い肌、男性性を感じさせない細い顎に見惚れてしまった。  思わず、「お姫様」と言ってしまったら、盲目ゆえに目に巻いた白布ごしにきっと睨みつけられ、奥宮に女なんぞが居るわけがないでしょう、とかなり馬鹿にした口調で言われた。初めて自分の言葉に対等に返されて、そんな経験のなかった赤水は嬉しくて、どれだけ邪険にされようとも黒曜に付き纏い始めた。  普段は取り澄ましている黒曜が乱暴に鬱陶しい、煩い、邪魔、馬鹿、と言うのも自分だけだと思うと嬉しかったし、何より口ではなんと言っていても結局は赤水に付き合ってくれた。  初めて出来た友でもあり、兄弟でもある黒曜に赤水は自分の知っている素敵なものを教えたくて、色々と連れ回した。空に近くなるからと奥宮で最も高い塔の屋根に黒曜を登らせた時には、それを見つけた黒曜宮の侍従が腰を抜かしてしまった。落ちたらまず助からない高さの足掛かりもないような屋根の上に盲目の主人が手を引かれて登らされているのだ。黒曜宮からは赤水晶宮にきつく苦言が届いたものの、今から思えば無茶苦茶だと思うようなことに黒曜を数々巻き込んだ。  奥宮の大きな色硝子窓が陽の光を通してきらきらと燦めくのがとても綺麗だったけれど、黒曜には見えないから、どの美しさをどう伝えようと悩んだ。  とても良い事を思い付いて、意気揚々と黒曜を隣に連れてきて、大硝子に石を投げた。澄んだ硬質の響きの後に大硝子が石床に落ちて砕け散って奏でる複雑な音が石壁に響き渡った。石壁の反響のおかげでその音はこの世のものと思えぬほど澄んで美しかったが、飛び散った破片が二人を襲った。無数の硝子片が肌を切りつけ、目が見えぬせいで驚いた黒曜が後ろ方ざまに転倒し、破片の上に手をついて縫う程の大怪我を負った時には、皇から一言「物の道理が解るまで出てくるな」と蟄居を命じられた。 (あれは流石に反省したな)  思い出して苦笑する。尋常ではない音に飛び上がった宮仕え達がやって来、黒曜の惨状を見て真っ青になって直ぐさま抱えて走り去った。赤水自身も無数の切り傷が出来たが、自分の所業で黒曜に大怪我を負わせた事に茫然と立ち竦むだけで、続いて駆けつけた紫水に平手打ちにされて自宮に戻された。  一ヶ月以上、狭く寝台と座学用の机しかない部屋に入れられ、黒曜と会うことはおろか、外遊びも禁じられ、座学の師が午前と午後に遣って来るだけの生活を送った。黒曜がどうなったか知りたくても誰も教えてくれず、黒曜に会いたい、謝りたいと何晩も何晩も泣いて泣いて、やっと謹慎が解けた。  その後もいまいち思慮の足りなかった赤水は紫水の手を焼かせたが、黒曜に怪我をさせることだけはなかった。自分のせいで両の掌を何箇所も縫合させる傷を負った黒曜を二度と傷つけない、絶対に一生涯守ると誓ったのだった。  赤水晶の宮として皇に仕える身であり、皇の治世の為ならば赤水は如何なる事であろうとも従うという皇への忠誠心も恩もある。しかし、黒曜は別だ。黒曜の為ならばどのような犠牲をも払う覚悟がある。たとえ、皇に逆らうことになっても。 (でもさすがに皇には勝てないよな。だから皇に認めてもらわないといけないんだけど…)  この間の手合わせも本気で挑んだ。自分にはまだ余力が有ったし、力で押し切ろうとした所、剣先がずらされて、全力で力を掛けていただけに踏鞴を踏んでしまって、無様な負けになってしまった。 (前途多難だなぁ。ひとまず帝国相手に手柄の一つ二つでも立てないとな。)  実力をつけて黒曜を譲り受けられる位強くなって、黒曜にも見直してもらわねばならないと、夏に高い星空を仰ぎながら考える。  皇の忠臣たる宮が、宮を譲り受けるなぞ前代未聞であり、まずあり得ないことであるのに、これほど気楽に考えているあたり、赤水が黒曜から頭が悪いと言われる所以である。 『(あか)は、本当に考えなしというか、頭が悪い。誰も思いつかない突拍子のないことを考えるますね。  …でも、あの大硝子の音はなかなか良かったです。もう二度と聴けないでしょうから、貴方が怒られてくれて助かりました。』  謹慎の後に黒曜宮で黒曜の両の掌のまだ生々しく残っている傷跡を見て、何度も土下座で謝っていた赤水に呆れたように文句を言った後、そっと耳元に口を寄せて、周りの侍従長逹に聴こえぬように真っ黒な姫然とした笑顔とともに囁いた。共犯者めいた言葉に赤水も思わずにんまりしてしまった。 『俺らっていいコンビだよな?』 『貴方と一緒にしないで下さい。あと私を面倒に巻き込まぬように。』  赤水が調子に乗って黒曜の肩をとると、にべも無く手を振り払われる。それでも赤水は黒曜に許して貰えて嬉しかった。  
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