5-1.真名

1/1
前へ
/157ページ
次へ

5-1.真名

 宮に移ってからも、体術の時間と座学の時間、夕食後は閨房作法の時間と入れ替わり立ち替わり指南役がやってくる生活は変わらなかった。ルクレシスもそのリズムにも慣れてきた。  住む場所が変わっても側仕えや侍従たちは外宮の部屋の時からの者達も居り、見知った顔が多いことも良かった。  あちらに居る時にはあまり理解が出来ていなかったが、一人の貴人に対して一人の侍従長がつくようだ。外宮の部屋な時に責任者を務めてくれていた男が瑠璃宮でも侍従長を務めてくれるということだった。  侍従長は生涯ただ一人の主に仕えると言う。侍従長は主を支えるために、時には諭したり、苦言を呈したりすることもある。主の隣で同じように考え、道をともにする者である。主の誉れは自身の誉れでもあり、主の責は自身の責でもある。まさに一蓮托生である。  主が早逝してしまった場合殉じる者もいるとまで言われるが、様々な事情で主を喪った侍従長は各国の貴賓が逗留する外宮で勤めることもあった。新しい瑠璃宮を取り仕切る侍従長は、そんな遍歴のある侍従長らしい。  ルクレシスはいつ打ち捨てられるか分からぬ自分なんぞに縛りつけることになって申し訳ないという気持ちになる。従兄のジシスに後継が出来たら、ルクレシスは人質としての価値はなくなる。  それより前に皇が見切りを付けるかもしれない。皇は苛烈な性質のようだから、勘気によって牢に入れられたり、殺されたりするかもしれない。そう思うと彼には貧乏くじをひかせてしまった。    侍従長の下には、侍従長を補佐する侍従が3人いて、様々な世話を焼いてくれる。侍従長は余程のことがない限り変わることはないが、侍従は侍従長のもとで学んだ後、また違う主に仕え、侍従長へと出世していくらしい。  身の回りの力仕事や下仕事などは側仕えと言われる男性が行っている。主に声をかけたり、応えたりすることは許されていないらしい。主人とやり取りをするのは全て上級職にある侍従とのことだった。自分から話しかけようと思ったことが無かったルクレシスはそんな慣習があるとは知らなかったが、確かに側使え達は黙礼のみで目も合わぬよう、いつも顔を伏せていた。さらに貴人の目に触れぬところに下男がいて、洗濯や掃除、水汲みなどの雑事をしているということだ。  侍従達とは異なって、別に宮付きの神官達も居る。身体(主に性的意味の)の世話には水の神殿の者が、護衛としては火の神殿の者がつく。木の神殿からは厨房の者が。彼らは皆、瑠璃宮の専属の技術職だという。  瑠璃宮の水の神官は、初夜からルクレシスの世話をしていた少年宦官だった。彼のことは苦手ではあるが、更に別の人に痴態を見られるよりは彼が来てくれて良かった。護衛として紹介された神官も体術の指南役であった彼だった。毎日、朝に夕に散策に付き合ってくれていて、他の人よりは気安く、彼の表裏の無さそうな笑顔を見るとほっとした。  瑠璃の宮は主であるルクレシスが望まなかったため、人の数は最低限であるが、それでも専属の者達が15名程になる。  ランス国でルクレシスには監視役としての下男下女が居たものの、世話を焼いてもらった覚えはないので、着替えも入浴も食事も片付けも全て自分で出来るため、15名だって必要ないと伝えたのだが、侍従長に諭された。 「これでも少ない方なのです。何でも言いつけて下さって大丈夫なのですよ。宮様に御仕えすることは皆の喜びでもあるのですから。宮様が皇の覚えがめでたければ、この宮の者達にとっても誉れなのです。」  後に別の宮から主人が拒否したら彼等は馘になる、専属になることは大出世であるし側で使ってやるのが貴人の役目だと諭された。それでも、自分の失敗が彼等の人生そのものに関わるのかと思うと重荷に感じ、やはり気が進まなかった。 「今更なのだけれど、侍従長の名前は何と言うのだ?」  こちらに来てから、ずっと世話をしてもらっているにも関わらず、誰の名前も知らなかった。何気なく名前を問うと、侍従長が床に膝をつけて拝跪するので驚く。 「恐れ多くも私なんぞは宮様と名を交わすほどの者ではございません。」  これまで誰の名を尋ねることもなく来たので、知らなかったが皇国では真名(まな)は家族と他には配偶者にだけ明かすという風習があるということだった。  普段は家名やその者を特定するような名、役職で呼び、親しい者同士では通名(とおりな)で呼び合ったりもするが、真名(まな)を交わすのは人生を共にする契りになると。  ルクレシスも名を明かしてはいけないと言われた。そう言えば誰にも名を尋ねられたことはなかったし、『ルクレシス様』という呼称はなかった。  宮に上がるまでは『ランスの御方様』と生国を冠した名で呼ばれていた。瑠璃宮に移ってからは『瑠璃の宮様』や『宮様』と呼ばれるようになっている。  庶民の間では面倒な風習ということで今はほぼ廃れたが、貴族や神官、皇の周りでは未だ固く守られている風習らしい。  もう一つ固く守られている風習としては皇の周りには女性が一切居ない。皇の政務や生活を行う陽宮のうち、外宮より中の内宮は女人禁制である。女性の陰の気が皇の陽の気を曇らせるためと言われているが、間違っても皇の子が産まれないようにするためだと言う。  皇は陽の神殿から始まりの朝に立つ。それが皇国の根幹をなす制度であり、建国以来違えられたことのない法であるからだ。
/157ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2672人が本棚に入れています
本棚に追加