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5-3.紫水
「そういえば、あれはどうだ?」
皇の側に控え、書類を捌いていた侍従長は皇に問われ、「あれ」とはと数秒考える。皇はいつも唐突だ。そして、あぁ、今ご執心の、と得心がいく。
(私は子どもの世話係まではしてませんよ)
「瑠璃の宮で御座いますか?御息災で御過ごしの事と存じますが、一度宮を訪ねられますか?」
表向きには不敬に聴こえない程度に、気になるのならご自身でご確認されたら如何ですか?という意を込めて返した。
皇は彼の返答の意図を正確に読み取って居るのだろう。一睨みしてきて、特段何も無いなら良い、と返してきた。
侍従長は皇が即位した際に政務を司る内宮で官吏として参内していた。当時21歳で、すでに参内して5年となり、仕事も一通りこなし、毎日決まり切った手順と既存の権力による決まり切った政策とに飽き始めていた時分だった。
前の皇は気に入りの宮を侍らせて、政に興味も無い。皇の首がすげ変わった所で何かが変わるとも思えなかった。彼は普通に仕事をこなして、そこそこの恩給を貰って、ある程度の蓄財が出来たらば適当に居を構えて、好きに過ごそうと何の野心もやる気もない男だった。
皇が齢42歳で急に陰の宮に入ると、慣習に従い始まりの神殿から新皇が立った。
どう選抜するのか知らぬが、新皇の前評判は最悪であった。狂皇だと。陽の神殿には数多くの神官が居る。なぜそんな神官が選ばれたのか。
夜明けと共に光現した新皇は、神託を受けるために拝列していた神官長達の首を諸共跳ねたらしい。
お陰で皇城は大わらわだった。新皇へと変わっただけなく内政に関わる神官長らまで総入替となったのだ。
血塗れの装束のまま王城に入宮した皇は、その侍従長と侍従を挨拶の間もなく、これらも殺してしまったとか。
(何とも血生臭い皇を戴いたものだ)
精々、自分も勘気を買って首を文字を飛ばされないようにしなければ。
新皇の政務の場である内宮での朝議では、これまで皇に気に入られたい者が我にと前に前に詰め掛けていたのに、今朝は不思議と後ろに後ろにと下がり始め、常は後ろで適当に過ごしていた彼が前にされてしまった。
一斉に拝跪している中で高座についた皇からは見なくても分かるほどの怒気が発せられている。異様な緊張感が張り詰め、発狂した皇がこの部屋の者を諸共、殺し尽くすのではないかという恐怖感に包まれていた。
なぜそんなことを思ったのか今でも分からないのだが、彼は命知らずな事に拝跪の姿勢から顔をあげて皇の尊顔を拝した。冗談ではなく、どうせ殺されるなら、その姿を目に焼き付けたいと本気で思ったのだった。少し盗み見るだけのつもりだったが、目をあげた瞬間、音がしたと思うほど、皇の黒曜石のように輝く目と合ってしまった。一瞬で背に汗が噴き出す。
捕らわれてしまったかのように視線を外すことが出来ない。造作が美しいというだけではない。圧倒的な存在感だった。神とはこのような存在なんだと思い知らされる。魂まで灼かれるような神々しさと凍りつかせるような畏ろしさだった。
「何だ?」
新皇が彼に向かって問う。
自分が意識して振る舞ったかも定かではない。
「我が身命を賭して、御仕え申し上げます。」
思わず深く拝跪して、奏上していた。
そのまま固まっていると、皇のあまり感慨深げでもなく「そうか」とだけ応える。
「わざわざ言うほどだ、仕えさせてやろう。今から我の側仕えだ。」
周りは固唾をのんで拝跪しているが、全身で事態の成り行きを伺っており、側仕えという言葉に息をのむ。
この広間に集まった官吏たちは貴族階級の高級官吏で行くは大臣か地方知事を任されることもある者たちで、中級使用人である側仕えは彼らからすると低い地位だ。事実上の降格になる。馬鹿な同僚が間抜けな境地に陥ったことをせせら嗤う者もいれば、皇の勘気が爆発しなくて良かったと胸を撫で下ろす者と様々な心中だったであろう。
「有難き幸せでございます。一生、お仕えさせて頂きます。」
当の本人は皇のそばに侍る畏れ多さに頭を上げることが出来なかった。
その日から側仕えとして仕え始めたが、侍従長も侍従もいない皇の奥宮は目の回る忙しさであった。皇に先んじて、無言であらゆることを采配しなければならなかったのだ。
皇は聡く、妙に度胸の据わっている彼を重用し、紫水の宮として遇した。そして彼を私事も公務も司る侍従長としたのだった。
皇が前の侍従長らを馘にした理由は、官僚達が皇を監視するために用意してきた侍従長達だったからだと。
そして若い時分は手頃だったのか時々、夜の恩寵も賜ったが、超過勤務だと早々に辞退した。
即位当初、ラーグも自分で好きに扱えるように適当な貴族の子弟を宮として遇したものの、それ程、彼を縛り付ける気はなかった。
紫水の宮も年齢も年齢であるし、還俗し、妻帯でもしたら良いと言った事もあったが、「通勤に便利なので」と今も生活の場は奥宮として、今も変わらず紫水宮からラーグの所に朝の挨拶に伺って来ているのだった。
一度彼は恐れ知らずにも、皇に問うたことがあった。なぜ《夜明け》に神官長達の首を手ずから刎ねたのか、と。皇は嗤って答えた。
「こいつらが贄に成るべきだと思ったんだよ。我は神の顕現だという。だから我が望むまま首を刎ねてやった。」
皇は静かで哀しい怒りを懐かしんでいるようだった。
紫水の宮は、皇が神だとは思わない。優秀で冷徹で残酷な一人の人間だと思う。しかし、今上皇は一生を捧げるべき自分にとって神にも等しい存在だと確信していた。
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