6-4.抑圧

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6-4.抑圧

 ルクレシスは、ふっと覚醒した。目が覚めたがここが何処だか一瞬分からない。瞬きを繰り返し、天井を凝視してやっと皇国で与えられた自室だと認識出来る。そして、先までは夢だったんだと気づく。これまでの思い出したくもない過去だ。  身体を起こそうとすると、少し動いただけで頭がぐらぐらする。身体が今まで伽をしていたかのようにだるく重い。暑さでべっとりと汗をかいていた。 「あぁ、宮様、お目覚めでございますね。さぁ、お水を…」  いつもは物静かな侍従が妙に感極まったような様子だ。側仕えがやってきて、身体を抱き起して唇に吸い口を当ててくれる。ひどく喉が渇いていたから、とても有難い。しかし、すぐに口から溢れてしまう。飲み下そうとして少ししか出来なかった。力が入らない。  先まで自分は何を求めていたのか。夢だったのか、はしたなく強請っていた自分の姿を思い出し、吐き気がした。 『淫乱の子』  自分の身体が気持ち悪い。纏わり付く寝衣を掻き毟った。  ルクレシスが身体を気持ち悪そうにしたからだろう。水を下げた側仕えが、今度は蒸した温かい布で全身を拭き清めてくれる。  そして新しいさらっとした肌触りの良い夜着に着せ替えてくれた。    ここにいる人達はルクレシスのことを大切そうに扱う。  皇の情人だからだ。  情人…穢らわしいと何度も言われた身体は、言われた通りだったのだ。男の精を飢えたように求めた夢の中の自分に絶望した。  毎週説教にきていた老司教が耳元でがなり立てる声が残っている。熱心な老司教は不義の子であるルクレシスがその血のせいで罪に堕ちないように、淫欲の罪深さについて説き、身を慎むことを繰り返し説いた。 『背徳の徒』 『売女の子』 『裁きを受けよ』 『血を穢した』 (じゃあ、どうして僕は産まれたの?)    頭が割れるように痛んだ。頭を抱えた。 「宮様?宮様?」 「大丈夫ですか!宮様!宮様っ!」  掛けられる声が響いて割れる。両耳を掌で押さえて、声が罵声になってルクレシスを責めてくるのから逃れようとした。  忘れろ。考えるな。忘れろ。忘れろ。忘れろ。忘れろ。忘れろ。  逃げるように、泥に引き摺りこまれるように、また眠りに落ちていった。  侍従達が呼び掛ける声がどんどん遠くなる。起きていられない。 (今は寝かせて…) …………  目を覚まされたが、直後、頭を抱えて昏倒してしまった主に一同は騒然とする。  明らかに御様子がおかしい。医師を呼べ、宮様、しっかりなさって、と悲鳴に近い声が飛び交って、寝台の主はその声に怯えるように両耳を塞いでしまった。  慌てて駆けつけた老医師は脈や肺の音を聴いて、命に別状が有るわけでないと告げるが、それ以上は判らぬとしか言わなかった。  侍従長だけに引き継がれた瑠璃の宮の生国での暮らしぶりなどが詳細に書かれた報告書の内容を思い出して、侍従長は心を痛めた。  王族でありながら、あの細いお身体で耐えてこられた辛苦を思う。  父王が急逝してから、幼い時代、地下牢に幽閉されていたり、時に軟禁程度となっても充分な養育もなく、悪意だけに囲まれて過ごして来られたと。  あれだけ錯乱された様子。次に目覚められる時にどう接して差し上げるべきか…。  しかし、侍従長らの憂慮とは裏腹に、次に起きた瑠璃の宮は憑き物が落ちたかのように普通であった。まるで何もなかったかのように。  熱発し、寝付いたために体力が落ちてはおられるが、一見して精神的には落ち着いておられる様子だ。  落ち着いているというより、以前と同様、侍従たちが何かを促さなければ、特に何もされようとしない。  医師からは講義と体術の時間を再開したほうが、食事も進むでしょうから、と普段通りの生活の許可が出た。 「しかし、くれぐれもあまり無理をなさられませんように。ランス国とは気候も違いますし、天中節に向かってまだまだ暑くなります。御身体が驚いておられると思いますので、ゆっくりと御身体を休めて下さいませ。」  ルクレシスの虚弱な身体がただの体力不足なのか、精神的なものなのか、血によるものなのか分からないものの、今回は快復に向かっていることに医師にも判然とはしていないのだが、医師の一旦の回復を告げる言葉に侍従長は胸を撫で下ろした。 「もうすぐ天中節ですから、それまでにご養生なさられて下さいませ。」  医師が下がった後、侍従長に瑠璃の宮が珍しく質問してくる。 「天中節とは何だろうか?」  講義も休みになっていたから、教師である神官から未だ学んでいないようだ。 「皇国の一年で最も大切な神事の一つでございます。」  一年で最も陽が長くあがる夏至までの七日間、決められた作法で皇が始まり神殿において神事を執り行う。神事によって受けた祝福を皇民に分け与え、陽の季節が始まる。皇民も決められた作法で国中の陽の神殿を祀る祭事を行うらしい。 「宮様方も天中節での神事では大切なお役目がたくさん御座いますよ。」  宮には皇の神事に付き従う役があり、もう暫くすれば神事のための習いも始まる。  また天中節では各国からも祝いの品を届ける使者が訪れる。ランス国からも皇国への親愛を示すために使者が向かっていることだろう。瑠璃の宮はランス国の使者の謁見に立ち会うことも決まっている。謁見、晩餐会での衣装をどのようにするか、瑠璃宮を預かる侍従長達の重要な仕事でもあるからだ。
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