7-1.黒曜

1/2
前へ
/157ページ
次へ

7-1.黒曜

 平素の生活に戻って来た所、黒曜宮からの使いが書状を持ってやって来た。書状には見事な蹟で御茶に誘いたいという旨が書かれていた。 「お茶?」  どういった意図で呼ばれているのかを計りかねて侍従長を見遣る。 「ごく私的に宮様の御歓迎なさられたいとのことのようですね。御体調がよろしければ、折角の御招待ですし、お受けしては如何でしょうか。」  そもそも宮として歴も長い黒曜の宮の誘いを断るのは礼儀に反するので受けるべきではあるけれど、黒曜の宮は清廉な人柄ですのでお会いすればきっと楽しい時間に成るでしょう、と勧められた。  この奥宮に他の宮が居ることは知っていたが、一度も会わなかったから会うことを考えたことがなかった。  皇国で、というより人生で初めての社交ということに戸惑いはあるが侍従長はどちらかと言うと招待を受けるように熱心に勧めてくる。侍従長は、黒曜の宮は瑠璃の宮の体調に関しては殊更お気にされているので、体調が優れなければ断っていいとは前置きはしていたが、断ることが非礼になるならば行かぬわけにいかない。  そうと決まると応接間で待たせている先方の侍従に返事を持たせるために侍従長に手紙は代筆して貰った。字を書きなれないルクレシスの蹟はまだ人に見せられるものではない。  返信を済ますと、ごく身内を訪うだけではあるが、身支度のためにと今日の午後の授業は取りやめとなった。  身支度として、普段着より少し装飾が細かく地紋の入った絹の上衣を着せられる。デザインが洒脱で格式ばったものではないが、上質な素材を使った余所行き着だ。夜伽の役を果たすたびに皇からの褒美として下賜されて来た装飾品や衣装の一つで、衣装係が大切に保管していて、実はやっと陽の目を見ることになった。ということはルクレシスは全く知らないが。  髪は人前に出る礼に則って纏め上げるそうだ。閨に侍る時には顔回りを編み込んだだけで流しているが、場面場面によって色々なしきたりがあるらしい。  髪結いの側仕えが器用に側頭部を細かく編み込んで行くのを鏡越しに見やりながら、皇国に来て以来、毛先を整える程度にしか切られていない髪が随分と長くなったなと思う。  ランス国では髪を伸ばすのは女と相場が決まっていて、今の髪型は何となく落ち着かない。  今度切って欲しいと何気なく口にしてみた。その途端、側仕えが困ったような顔になる。  進捗状況を見ていた侍従長が代わりに答えてきた。 「恐れながら、皇より髪は切らぬようにと拝命しております。」  髪にまで注文があるとは、ルクレシスは憮然とする。髪を伸ばし、編まれ、そこにも飾りをつけられると、まるで女のように扱われているように感じる。別段、皇国では男が髪を切ってはならぬようでもない。侍従長を始め、大抵の男性は短くした髪を整髪剤で後ろに撫でつけているのに。  ふと鏡に明らかに憮然とした顔をした自分と、主の機嫌を損ねてしまったことに困惑している側仕えが映っている。主に否とも言えぬが、皇の命に背くことも出来ない側仕えに当たっても仕方ないと、平生の表情に戻し、物分かりよく、分かったと答えて、髪結いの先を促した。  今更、女のように扱われることに憤っても仕方がないことで、要は夜伽は女の代わりで、孕むことのない便利な皇の無聊を慰める性処理の役だと、いい加減弁えろということなのだろう。  侍従に案内されて、これまで何度と夜に通ったのとは異なる回廊を渡ると美麗な宮に出る。  宮の主が自らルクレシスを迎えに出る。  ルクレシスは対峙して驚いた。 (盲目…でおられるのか?…)  柔らかな笑みを浮かべて差し出された手を取るが、目の部分には白い布が巻かれ、後で結わえられている。 「急な申し出にも関わらず、お越し頂いてありがとうございます、瑠璃の宮。見事なランスルーの瞳をお持ちだとお伺いしておりますが、拝見が叶わず残念ですが…驚かれましたか?」  なんと答えていいのか分からずに曖昧な返事しか出来ない。 「全く見えておられない、のですか?」 「そうですね。光があるのは感じられるのですが、ものの形などは難しいですね。それでも意外と慣れれば不便でもないのですよ。例えば、宮は今とても困った顔をしておられるだろうな、なんて言うのは分かります。」  黒曜の宮はルクレシスの困惑をくすくすと笑ってくれる。 「さあ立ち話も何ですから、大した部屋ではないですがお入りください。皇が光を感じることは出来る私のために宮の中でも最も陽の差す宮を下さったので、気に入って居るのです。」  通された部屋は居心地よく整えられており、盲目の主のためにか、ごちゃごちゃと調度品の置かれていない明るい部屋であった。置かれた調度品は厳選されたものであるのだろう。見目も美しいが、張られた布の手触りや石の質感が上質なものばかりである。 「皇国には慣れましたか?」  少し考えて、「はい」と答える。  慣れない部分も多いが、侍従長を始めとして宮の者達にはとてもよくしてもらって、生国より格段に快適に過ごさせてもらっている。 「気候も違いますでしょう?ランス国はとても寒いと聞きます。」 「そうですね…冬になると家の中で火を焚くのですが、こちらにはそういったものがないので、驚きました。」  厳冬期には雪に閉ざされてしまうランス国では暖炉は必ずどの部屋にもあった。ルクレシスが転々としたどの場所でもそれは変わらなかった。 「雪、というのでしたか?雨が固まったものが降られるとか。」 「はい、白くてふわふわしているのですが、それが一面に積もって、酷い時には1メートル先も見えぬような日もあります。こちらでは降らないのですか?」 「ええ、私の出生地はこの皇都より北にありますが、そちらでも雪というものは降りませんでしたよ。」  黒曜の宮の物腰が柔らかで受容的であるため話しやすくて、つい不躾にも来歴について尋ねてしまう。それにも笑顔で答えてくれた。 「私は元々、()の生まれなのです。皇都より北西の地方で貧しい農家の長男でした。」  彼は10歳になって直ぐに生死の境を彷徨うような高熱に見舞われ、九死に一生を得たが、視力を失ってしまった。  その地方では大抵そうであるように黒曜の生家も貧しかった。子供であっても貴重な労働力で、全員が働いて何とか税を納め、飢えずに生きていけるかどうかであった。当然、視力を失った子どもを養う余裕など無い。  労働力にならないばかりか、生活の全てに助けが必要になった黒曜は一家の負担になった。 「下にも兄弟が沢山いましたからね。子捨ては重罪になりますし、神殿に入れるにもお布施が必要ですから、死んでいた方がましだったのにと思いましたよ。」    丁度、皇の行幸が溯の中心街を通られるとのことで、一目その皇の姿を見て祝福を頂こうとその日だけは村全員が仕事を休んで街に集まっていた。黒曜は見えなくなった目でも皇の祝福を頂いて、そのまま街で物乞いにでもなろうと考えた。  しかし、見えぬ目で何とかたどり着いた街では、皇の通る街道沿いは人が多すぎて前に進むことが出来ない。何度も突き飛ばされ、人の波からはじき出された。  仕方なく、街道から少し離れた所に立っている木に手探りで登った。見えなくとも、生き神とされる皇の祝福を受ければ、もうそれで死んでしまうことになってもいいのではないかと思ったのだ。  一際騒ぎが大きくなり、続いて、一瞬であたりが静まり返る。民衆は皇の威光にひれ伏して、声が出なくなったのだ。皇の行幸を先導する従士が打ち鳴らす鐘の音が目の前を過ぎて行く。  黒曜はもっとよく感じようと身を乗り出す。 「あれは何だ?」  皇の一声で行列が止まる。民衆は誰かが粗相をしたのではないかという恐怖でより一層平伏して動かない。  側仕えの一人が皇の指し示す方に、木にかかった襤褸切れのような姿(なり)の黒曜が居た。  皇を仰ぎみるのは不敬であるから、地面に平伏していなかった黒曜は罰を受けるのか。  乱暴に木から引きずりおろされた。 「お前、目が見えないのか。」 「はい」  黒曜は呆然と立ち竦んでいて、下男に頭を下げるように小突かれた。 「見えもしないのにあんなところで何をしていた。」 「皇の祝福を頂きたくて…」  皇が鼻で嗤うのが分かる。 「祝福で腹は膨れまい。物乞いなんぞ、明後日には野垂れ死ぬか売り飛ばされるかが関の山だ。まぁ、それでもあんな木に登った努力は認めてやる。お前に機会を与えよう。」
/157ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2672人が本棚に入れています
本棚に追加