7-3.平穏

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7-3.平穏

 気をやったまま寝入ってしまったルクレシスは、ふと目を覚ます。寝返りを打とうとして、身体が絡めとられているのに気がつく。 「まだ早い、寝ろ。」  背面の至極近い位置で声がして、驚いて身を捩る。自分の体が一回り以上も大きい体躯に背後から抱きとられているのに気がつく。それに気付いて、慌てて身を起こそうとすると、強い力で抑え込まれる。 「騒々しい。大人しくしてろ。」  皇はルクレシスに構わずに再び寝入った。だが背中に皇の存在を痛いほどに感じ、身体を絡めとっている逞ましい両腕の体温と重さに神経が立ってしまい、眠気は完全に霧散してしまっている。皇の眠りを邪魔しないように、朝の侍従長の挨拶まで息を潜めて過ごすことになってしまった。  寝台前で拝跪の礼をとっていた侍従長が頭を上げ、寝台の上で皇に絡め取られたルクレシスを見て目を瞠る。  皇が寵童を朝まで囲いこんでいるのはいつもの通りだが、目がパチリと合ったからだった。ルクレシスが皇の起床時に目覚めていることはこれまで無かった。それは、あまり無体を強いられなかったということで、皇が侍従長の進言を聞き入れたということだったのだが。 「明日は神殿での予行と申しましたのに。」  侍従長が眉を顰めて、低くそう言う。その言葉の意味が分からないが、ルクレシスに向けられた言葉ではないようだ。  その実、翌日、神殿で天中節の予行にも関わらず、ルクレシスの身体中に所有痕が散っている。肌が白いだけに一際目立っている。一日やそこらで消えるわけがない。化粧で隠すにも限度がある。  それで侍従長は盛大に顔を顰めていたのだ。 (いくらなんでも独占欲が強すぎでしょう!) 「適当に着せておけばよかろう。」  ルクレシスは皇と侍従長のやり取りがよくわからないものの、皇が寝台を降りるのに自分がいつまでも寝台に居るわけにいかず、慌てて寝台から足を降ろす。自分では立ち上がったつもりだったが、思った以上に腰が軋み、下肢に力が入らずに前のめりに倒れてしまう。 「何をしている。」  突然、寝台から転がり落ちたルクレシスに皇の呆れ声が落ちる。 「あれしきで脚が立たないか。お前は下がっていい。」  結局、皇の宮からルクレシスは自分の足で退出したことはない。迎えの側仕えに横抱きにされて戻った。  宮に戻ると、侍従長が笑顔で迎えてくれる。 「よく御勤められました。」  今朝は主が脚は立たなさそうではあるものの、体調も良さそうな上に皇の寵愛を一身に受けた事が分かり、何よりである。  ただ明日の衣装については大至急で仕立て直さねばならず、侍従長は頭の中で忙しく算段をつける。  予行も正装を身につけることが慣例であったが、陽の季節の正装では襟が無く肌の露出が多くなる。陰の季節の正装であれば縁高の襟となっているので、そこにさらに飾りをつけてしまえば、鬱血痕を隠すことは出来るだろう。  侍従長は衣装係の者達に指示を出して、至急で外宮の裁縫を行う下女のところに向かわせる。  主は自宮に帰ってきたことで気が緩んだのか、朝のフルーツをつまみながら、うとうととし始めていた。  大役を果たされたのだから、お疲れも当然だろう。 「ゆっくりお休み下さい」  薄帳を下ろして、敷布に側仕えがそのお身体を降ろすと、すーっと寝入られた。  穏やかな寝顔に、このまま平和な眠りになりますように、眠りを護る月の女神のご恩寵がありますように、と願う。  瑠璃の宮は酷く魘されることが多い。涙を流しながら北方語で譫を繰り返され時もあれば、何かに驚いて飛び起きられるということも度々おありだ。そして、目を覚まされると全く覚えておられない様子なのだ。  見ていて、非常に心痛むが宮本人は起きぬけにお声をかけても、魘されていたことを覚えておられない。わざわざ覚えておられない事を掘り返すのも忍びなく、お伝えしたことはない。  主に関する生国でのご様子を記した報告書を読むと、主への扱いは予想以上に厳しいものだった。  瑠璃の宮は産まれ出でる前から、難しい立場にあった。当時の国王の一度のお手がつきで身ごもったレンダス伯爵家の娘の身を巡って、様々な意見が対立した。  シザ教では婚姻外の性交を禁じている。姦通は大罪だ。レンダス家の娘は既婚者を誑かした魔女だという声が上がった。レンダス家はその権力で、むしろ子を為せない王妃との婚姻が無効だったと主張した。王家の純血を尊ぶ貴族は血の浄化のために、母親諸共、半血の嬰児を暗殺しようとした。  それでも無事だったのは、国王が速やかに自分の子を宿した娘を匿ったことと、伯爵家が火石の精錬事業を掌握しており、王家以上の権力を有していたためである。  最も娘の父である伯爵は娘可愛さというよりは王族の外戚となって、更に政治の中枢にも踏み込もうという野心であった。  娘を何処かに嫁がせて、婚家にルクレシスを実子と認めさせれば、姦通の罪に問われることは無かった。当時のレンダス家であれば、相手にそれを認めさせ、周囲にも口出しさせない位の力があった。だがそうせず、男児が無事に産まれると、執拗に王に実子として認めるように迫ったのだ。  瑠璃の宮が生まれてからも王族として育てられるのか、伯爵家の養子となるのか、それぞれの思惑から待遇が決まらなかった。そのため、私生児という中途半端な立場に置かれ、処遇は政情によって何度も変わったらしい。父王が存命中は母子ともに離宮に匿われ、待遇も酷いものでは無かったらしい。  しかし、対立が激化し、父王が事故から死んでしまってからは、伯爵家が徐々に不利になっていき、娘は姦淫罪で教会から訴えられるという状況になった。前王の死によって戴冠した現王一族の擁護の受けた純血派が力をもったためだ。姦淫罪で有罪になれば貴族の娘とはいえ、絞首刑となる。一族から罪人が出えしまえば、いかな伯爵家も存続が危ぶまれる。それ程に劣勢になっていた。  従って、瑠璃の宮の立場は更に悪くなっていったのは想像に難くない。頑なに出頭しない母親への質として修道院に幽閉されたり、王統を乱した被告人として牢に入れられたことさえあったと書かれている。  今回の契機となった血の浄化のために現王の従妹の居るアデル帝国と接近し始めたのも、純血主義者達の策謀だったと。  そして、黄皇国の横槍により瑠璃の宮は土壇場で王族として認められ、継承権第二位になられた。そして、すでに亡くなった前王の王妃は後継を為すという妻の義務を怠ったとして教会に申し立てられ、離縁され、ルクレシスの母が死亡した前王と婚姻し、同時に未亡人になったのだ。  最終的には王族として認められたものの、傀儡としてルクレシスを扱おうとする祖父にあたる伯爵は、産まれた時から孫への教育の必要性を認めていなかったし、純血派にとってはすぐにでも抹殺したい穢らわしい存在であった。  碌な世話も受けず、教育も施されず、常に虐げたれてきた事が報告書から解る。  皇国に来た時に浮浪児を王子と偽って送ってきたという噂が立つのも仕方がないほど荒れたご様子だった。  痩せ細り、髪も肌も16歳にして老人のように艶を無くしておられた。白痴だと口さがない使用人が言うくらい、茫洋として一言も発せられない、何にも興味を示されなかった。御自身の境遇に嘆くことも、不安がることもなかった。  ただ魂が抜けたようにそこにおられた。  医師の見立てでは、厳しい環境において精神を乖離させることに慣れてしまったのだろうとのことであった。だが、皇国に来て、生活が一変したことで、混乱を来たしておられるのだろうと。  瑠璃の宮を預かった侍従長として、主には心安らかに過ごして頂きたい。宮というお立場が安定したものかというと難しいところではあるが、ここにある限り、それが使用人一同の願いである。  
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