8-1.印

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8-1.印

 翌朝、ルクレシスは事前に聞かされていたが、天中節の予行があると言うことで、何時もよりも早く起こされた。準備のために湯を浴びて香油で肌を磨かれた後は、髪結いのために鏡台の前に座らされる。そこで、ルクレシスは鏡にうつる首筋の痣にぎょっとなる。昨日一日は日中微睡んでいる状態だったので、楽な格好で過ごし、鏡も見ていなかったので、その痣に全く気づいていなかった。  赤いものは首筋だけでなくて、上体に散らばっていた。  何か病気かと思って、侍従を振り仰いだ。 「何かございましたか?」 「痣?斑紋?…が…」 「皇の御恩寵のお(しるし)です。こんなに沢山、宮様は本当に寵愛されておいでです」  笑顔の侍従の返答にルクレシスは唖然とする。これらは情交の跡なのか。 「本日は神殿に参内致しますので、残念ながら化粧でお印は隠させて頂きますね」  閨事の名残を平然と晒していたと知って、恥ずかしくなる。思わず羽織っている上衣の襟の合わせを手繰って胸にも散っている痣を隠した。  しかし、化粧係の側仕えの手で上着は取り上げられてしまう。衣装から露出している部分にかけて、濃い目のドーランを塗り込めて、痣を薄くしていく。そして、日避けの粉を叩いた。  化粧と同時に髪結いが頭を仕上げていく。第一正装ということで、瑠璃の宮であることを象徴する瑠璃(ラピスラズリ)で造られた飾りが結い上げた部分に差し込まれていく。それだけで頭が重い。夏用の衣装であると言っても宝飾の縫い付けられた上衣だけでも結構な重量感がある。首元は詰襟になっていて、痣のせいで開襟に出来ないのは重々分かっているが熱気が逃げない。この格好で儀式の為に半日は拘束されると言う。自分の体力の無さが不安になるが、宮の役目として勤め上げねばならない。  ルクレシスは皇国に入国して以来、内宮から出たことがなかった。幽閉されることに慣れてしまったために外に出ることなど考えたことはなかったけれど、今回は皇宮の外に出て、始まりの神殿に参内することになると聞いた。  内宮から馬車に乗せられて、一刻程で壮麗な石造りの神殿に着く。皇宮の南に位置している。各地方の都市の中心部には必ず陽の神殿があるが、皇都の陽の神殿は特に《始まりの神殿》とも言われ、地方の陽の神殿全てを取り仕切る主神殿なのだと講義で聞いた。皇は新月毎に祭祀をこの神殿で執り行なう。そして皇が現れる《夜明け》もこの神殿であり、皇国にとって最も重要な儀式の場であるとのことだった。  太陽が一年で最も高くなる天中節で太陽の恵を太陽神の化身である皇が民衆に与えるのも、この神殿だという。皇国中の陽の神官長が祝福を受け取り、地方に持って帰ると。宮は儀式を執り行なう皇の補佐だそうだ。  儀式の間は頼みの侍従長は控えてくれていない。付き人は一人として神殿に入ることも許されておらず、馬車が入り口に着くとルクレシスは一人送り出される。  儀式は南中の二刻前から始まり、各神殿からの太陽への供物が順になされる。宮はそれを受け取って、祭壇に供物を捧げる。その所作にも一つずつ決まりがある。丁度真南に設えられた祭壇に太陽が被るその時に皇が現れ、太陽のとりなしの儀を行い、皇国への一年の祝福を約する。南中後は陽の神官達が一糸乱れぬ舞を披露する。  その間中も宮には逐一決まった所作があり、覚えるのに頭がいっぱいになる。手本となる神官が前についているが、手は上げて逆足は半歩下がるなど幾つかの所作で何をやっているのか分からず、手足が絡まりそうになる。  遠くに見える黒曜の宮は難なくこなして居られるようだ。暑いはずなのに冷や汗が止まらない。  四時間強の儀式の予行が一通り終わると、黒曜の宮の方から声をかけてくれる。黒曜の宮の手を引いているのは見上げる程の長身の男性だ。赤毛の短髪に金の刺繍と大振りの紅玉が煌めく衣装を纏った偉丈夫である。  儀式の最中に同じようにしていたので、宮の一人なのだろう。 「瑠璃の宮、初めてですと大変でしょう?お疲れになりませんか?彼が前に言っていた赤水晶の宮です。」  紹介されて、見事な体躯の男性が気さくな笑みで寄ってくる。一歩前に進み出られるだけで、その背の高さと筋肉質な身体に圧倒されるが、顔は不思議と威圧感がない。 「初めまして、赤水晶(あかすいしょう)の宮という。呼びづらいから赤水(せきすい)で構わない。」  そう言って差し出された手を取ると、力強く握手される。慣れないルクレシスはその手の厚さに驚く。 「で、挨拶もそこそこで悪いが、顔色が悪くないか?襟緩めたら?苦しくないか?」  言葉もフランクで、明るい栗色の瞳で不思議そうに覗き込んでくる。ルクレシスが焦って返答出来ないでいると、赤水晶の宮の手が伸びて、首元の留め具をパチパチと外してくれる。  赤水としては、側仕え達がいなくて自分で出来ないのかと思って手伝ったつもりだったらしいが、ルクレシスは慌てた。衣服で隠れているところは印を消していないのだ。  あっと思って、慌てて襟元を押さえたが、赤水晶の宮には見られてしまったようだ。 「…悪い…」  襟で隠れていた首筋から鎖骨にかけて、赤い所有印が無数に散らばっていた。赤水はわざわざ夏の正装に縁高の襟をきっちりと着込んでいた意味を知って、慌てて謝って、手を引っ込めた。 「すごい所有痕だったよ。」  目が見えず気がつかなかった黒曜の宮に赤水がわざわざ説明し、ルクレシスはいよいよいたたまれなくなる。 「それはご寵愛が深くて何よりです。」  黒曜にもにっこりと微笑まれてしまう。 「瑠璃の宮、予行は無事出れたようで安心した。」  後ろから声がかけられる。振り向くと見覚えのある顔だった。 (…皇の侍従長?…)  あれ、と思っていると、黒曜の宮が先に挨拶をする。 「紫水の宮、ご機嫌麗しく。相変わらずお忙しいようですね。」 「あぁ、相変わらず毎日毎日こき使って下さる。」  疲れたというように首を鳴らしながら、こちらに歩いてくるのはやはり皇の侍従長その人であった。 「あぁ、宮として会うのは初めてか、瑠璃の。皇より紫水宮を賜っている。普段は皇の侍従長をしているから、何度か会っているが。」  瑠璃の宮の宣下の時にも皇からの勅書を持って来たのは、確かに目の前の人だった。 「お世話になっております。」  慌てて頭を下げた。 「瑠璃は本当に世話のかかる。今日もこの後はしっかり休まれよ。また倒れるぞ。」  一礼するルクレシスを止めて、薄紫色の瞳はどこか冷たいと感じていたが、少し揶揄うような口調は気安く感じられる。 「しかし、こんなに細いのによくあの皇のお相手が出来るな。」  赤水晶の宮がルクレシスをしげしげと見ながら、感心したように言う。ルクレシスが夜伽役であることは公然の事実らしい。 「お前は黒曜の真似をして、皇の情けが欲しいと強請ったくせに、泣きながら逃げ出したんだったな。流石に皇も呆れておられたぞ。」  紫水の宮が、あの後、私が不始末を謝る羽目になったんだぞと、赤水晶の宮に非難がましく言う。  気が置けない者同士の会話というように話が弾む。遠慮のない会話というのは初めてで、早いテンポで交わされる会話にきょとんとしてしまう。話の展開が早くて、よく分からないが黒曜の宮も赤水晶の宮もルクレシスと同じように閨に侍ったことがあったんだろうか。 「何がともあれ、瑠璃の宮は所作の特訓が必要そうだな。」 「同じ側の手と足が出るなんて、ここまで運動音痴も始めて見たよ。朝、練習に付き合ってやるよ。」 「動物のようなお前の運動神経と一緒にするな。…とはいえ、適任はお前しかいないな。私は時間もとれんし。」  紫水の宮の言葉に赤水晶の宮が答えて、ルクレシスの本番までの指南役は赤水晶の宮となった。
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