8-3.使者

1/2
前へ
/157ページ
次へ

8-3.使者

 天中節が始まって四日目、ランス国からの拝謁願いが出ているということでルクレシスも謁見の間に参席するように言われた。  この時の衣装については、侍従長が入念に打ち合わせをして用意をしていた。国賓が宮になった前例がないために皇国の人間として出るか、出生国の人間として出るかについて入念に検討された。国賓はそもそも賓客であって、派遣元の国に帰属する存在である。  侍従長としては主を散々虐げてきた国の格好をさせるのではなく、皇国の人間つまりは宮として列席して頂きたい気持ちが強く、最終的には皇国の第一正装に北方の民族衣装の意匠を細部に取り入れたものをあつらえさせた。基調とする色はもちろん濃紺(ランスルー)である。  基本形が皇国の伝統的な第一正装となっているので、暗にルクレシスを皇国側の人間だと示すことにもなった。皇国からすれば火石以外は国力が違いすぎる格下のランス国に、これでもかなり譲歩したと言える。  ルクレシスは事前に謁見を申し出ている大使らについては情報を貰ってはいたが、侯爵家の云々、伯爵家の云々と名前がつらつらと書かれているのをみても全く誰のことか分からなかった。ルクレシスに律儀に名前を名乗る者など居なかったから。  むしろ誰が来たとしても同じだろうと、思っていた。謁見は型通りに終わる予定であったし、ルクレシスはそこに座って生きている姿を見せればそれで年に一度の役目を果たしたことになる。  謁見の間では、上段に皇が座しており、中段にルクレシスが座るための椅子が配されている。使者達が拝跪している所に皇とルクレシスが入室する。皇が使者らと直接言葉を交わし合うことはなく取り次ぎは全て侍従が行うとのことだった。  謁見は呆気ないほど恙無く終わった。  使者から決まった皇国の繁栄を祈念する言葉と永く友好が継続するようにという口上が述べられ、天中節を祝う贈り物の目録が渡される。 皇から応の返事があって、それで終了であった。時間にして三分もなかったであろう。  ランス国から一ヶ月以上掛けて使者がやって来たにしてはあっけないものだが、ここで時間がかかることは両国間に問題が勃発していることになり、望ましいことではないことを考えれば、首尾よく終わった。  しかし、そのわずか三分の間にルクレシスの表情は氷のように固くなっていた。宮に戻って来た主の様子がおかしいことに侍従長は気がつきながらも、今夜の晩餐会はランス国の使者が参加しているため、他の日よりも殊更、休むことは叶わないため盛装に着替えさせて心配しつつも送り出した。  晩餐会は各国から集まった大使達をもてなすために楽や舞が披露され、各々が歓談に華を咲かせながら食事をするという類のものである。   各国が引き連れてきた楽団が祝いの演奏を捧げたり、様々な催しものもあるので、どれも見たこともなかったルクレシスは興味深く見ていた。  そんなルクレシスを更に物珍しいと見ている視線には気付いていなかったのは、他の宮達が入れ替わり立ち替わり、瑠璃の宮を守るように連れ回していたからだ。  ずっと噂でしかなかった生きた宝石、濃紺(ランスルー)の瞳が目の前に有る。火石が燃やす燭台の火に照らされるその瞳は、吸い込まれる程に深い。深くて濃く、なお透き通る青。白い肌に映える。今や皇の寵愛を一身に受ける寵童。年齢の割に幼い様子だが、それで男を知っているのかと、下世話な思いで見る者がいる。  だが、声をかけることも不躾な視線を投げかけるのも許されない貴人であるため、遠巻きに見ているのだ。  ルクレシスは連日の行事で溜まってきた疲れもあって、広間の人の多さから逃れようと人の少ないバルコニーに出て、ほっと一息ついた。  出来れば自国の使者と顔を合わせたくなかった。  しかし、それは甘かった。向こうはルクレシスが一人になるところを狙っていたのだから。 「ルクレシス様におかれましては、久しく」  気を抜いていた背後から声をかけられる。北方語のその声に身を固くする。背を向けたままで居る訳にもいかずゆっくりと振り返ると、嘲りと憎悪に満ちた表情でルクレシスを睨む青年がバルコニーから広間に戻る退路を断つように立っている。  継承権を持つ王子に対して、殿ではなく、と言うのは、明確な意図だ。 「可哀想な人質殿は、皇の寵愛の夜伽殿だとか。随分と愉しんでいるようではないか。」  一歩一歩近づいて来て、下を向いたままのルクレシスの顎を乱暴に掴む。 「無視か?自国からわざわざ旧知の知り合いがやってきたのに、挨拶もなしか。」  青年の名前は全く知らなかったが、この顔には覚えがあった。謁見の間でルクレシスを刺すような視線で見ていた彼はジシスの熱狂的な取り巻きの一人だ。取り巻き連中の中でもルクレシスを特に目の敵にしていた男だった。  彼はルクレシスを傷つけることに誰よりも長けていて、いつもジシスを悦ばせていた。ルクレシスが何に傷つくのかよく分かっていたのだ。あらゆる侮蔑に対してもルクレシスが無反応になると、母のことを引き合いに出して、ルクレシスの顔を歪ませて、嗤うのだ。  頭を抱えて転がっていても、鳩尾を蹴られるとのたうち回ってしまう。誰よりも的確に最も苦痛に感じるところを蹴りあげてくるやつだった。だからルクレシスはジシスが彼を連れて来ると、それだけで身体が震えた。  そしてジシスが飽きるまで、彼はルクレシスを徹底的に痛めつける。ジシスが切り上げても、まだ憎しみの篭った目でルクレシスを睨みつけてきた。 「生かされていた恩も忘れて、よくも皇国の(いぬ)になったものだ。やはり淫乱の子は簡単に脚を開く。」  謁見の間では結い上げられていた髪は夜会用に緩く巻かれて下ろされている。その髪を乱暴に掴んで嗤う。痛みから逃れようと身を捩るが、力ずくで顔を上げさせられる。 「何だこの髪は。どうやって男を誘った?母親の直伝か?女のように男に抱かれて、さぞや愉しんでいるんだろう。ランスの恥め、汚らわしい。」  その憎悪に塗れた目に射すくめられて、動けなくなる。あの頃と一緒だ。皇国に来たからといって、逃げられたわけでないんだ。逃げようという意思が消えていく。 「あぁ、そうだ。レンダスの淫婦は修道院入りらしいぞ。腐れ坊主の世話係にでもなればお似合いだろう。」  その一言でルクレシスの背筋が凍る。  シザ教の修道女が司教の体のいい慰み者であるのは有名な話だ。一般女性も勤労奉仕の名のもとに教会に捧げられることも多い。  母は書類上、前王の王妃となったが、王族の血が一滴も流れていない以上、配偶者たる前王はもういない。王族としてまともに遇される訳がない。  そうなれば前王を弔うためという理由で修道院に入れられることは可能性の高いことではある。身分は高くとも一度修道院に入れられたら、どのような扱いを受けようとも母を助けてくれる者はいない。伯爵家も王家も母は用済みで出来れば修道院の奥部屋から出てこないことを願うだろうし、司教達にとっては美味しい餌でしかない。 「母上は…彼女は…そっとしておいて差し上げろ…」 「今頃まわされてるんじゃないか。」  ルクレシスの反応を引き出して、彼はにやにやと嗤う。 「存外、お前のように悦んでるだろうさ。」 「血を穢した罪人は生きたまま火あぶりにでもなればいいのに、のうのうと尊き王族の末席を穢しやがって。」  嗤いながら青年の目が狂気に血走ってくる。掴まれた顎も砕かれそうに力が入れられ、ルクレシスは恐怖におののくしかない。
/157ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2672人が本棚に入れています
本棚に追加