8-3.使者

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「お客人、私は北方語があまり分からぬが、我が皇の宮から手を離していただこうか?不敬に取られよう。」  美しい発音の皇国語が二人の間に割って入る。紫水の宮の声だった。  青年は小さく舌打ちして、ルクレシスを突き放すように離した。そして振り返って、何でもないことのようなの応える。 「我が国で殿と親しくさせて頂いておりましたので、懐かしく、つい旧知のよしみで御手をとってしまいました。失礼致しました。」  広間の灯りを背にした紫水の宮が近づいてきて、二人の間に割入る。 「それはそれは、ご歓談を邪魔して失礼申し上げた。しかしながら今は各々、立場も違う。両国の詰まらぬ行き違いになるのも遺憾だ。以後、お気をつけください。」  紫水の宮が青年に釘を刺す。「私には北方語なので聞こえなかった」が、と宮への穏当ではない発言を流しつつ、暗にランス国と皇国とでは格が違うのだから、次はない、と忠告するのだ。  紫水の宮は謁見の間で瑠璃の宮を憎悪の眼差しで見る青年と固くなっていくルクレシスを見て、晩餐会での二人の動向に気をつけていた。  一国の使者が公の場であのような節度のない態度をとるなど尋常ではない。明らかにおかしい。  皇も気になったようで、青年についての報告をすぐに上げるように侍従に命じていた。  晩餐の席になってルクレシスに青年が接触するのも確認し、情報を得るために暫く二人の様子を見ていた。  追い払う位、自分でするだろうと考えていたが甘かった。それに人気のないバルコニーとはいえ、すぐそこに広間がある。逃げ込めば多くの人がいるから、幾らでも逃げられるはずだが、瑠璃の宮には無理だった。  瑠璃の宮の顔が真っ青になっていき、悪し様に言われている。貴族とは思えぬ品のない卑語に胸糞悪いなる。これ以上聴いていても無益だと割って入った。 「瑠璃の。人気の居ないところにいるのは間違いだ。旧知の仲だというが人の目があれば、そうそう無体な振る舞いもされまい。行き違いになるようなことがあれば、それは宮にも責がある。以後気をつけよ。」  毅然と跳ね除けない瑠璃の宮にも苦言を呈するが、それも耳に入らない様子で真っ青になって震えている。  幸い宴もお開きに近い。このような様子で一人にするわけにもいかないため、黒曜の宮と赤水晶の宮を呼びに行かせる。 「残りは黒曜と赤水と居れば良い。先ずは落ち着け。安い挑発に乗るな。」  瑠璃の宮がはっとしたように顔を上げる。 「…聞いて居られたのですか…?」  皇国の風習への侮辱を聴かれてしまっていたのではないかと恐れている様子だ。  無論、紫水は自国を侮られて不快でもあったが衆人環視の中で侮辱されたわけでもないため、面倒を避ける為に自分の内に留め、今回に限り聞こえなかったと不問に付した。それを蒸し返そうとは思わぬ。瑠璃の宮が巻き込まれる羽目になるからだ。 「いや、見かけて余りに距離が近いから、声をかけた。顔色が悪いが、何かあったか?」  聞いてなかったと前置いて紫水は瑠璃の宮の目を真っ直ぐ見て問う。濃紺の瞳が暫く揺れるとが、首を振って小さな声で答えた。 「…特に…個人的な話に驚いてしまっただけなのです…以後、気をつけます。」  打ち明けようか一瞬迷った後に口を噤んだ瑠璃の宮に紫水は嘆息する。 「個人的な話だと言うなら別段構わんが…持っているものは使った方がいい。ただ食い物にされるだけだぞ。」 「持っているもの…?」  瑠璃の宮には全く分からないようだった。  呼びたてられた黒曜の宮と赤水晶の宮に瑠璃の宮を託すと、紫水はさてどうしようかと思案しながら歩く。  あの脅しがどこまで本当かは分からないものの、立場の不安定さを考えれば瑠璃の宮の母親が教会に献上されることもあり得ない話ではない。  紫水の力でも、瑠璃の宮が望めば女の一人位、保護することは出来る。頼ってくるかと思って水を向けたが、ルクレシスはその手をとることはなく、内に籠ってしまった。この権謀術数の世界を生き抜くために自分の力をつけることも重要だが、使える資源をうまく使うことも必要だ。今をときめく皇の寵童であれば、願えば叶うことも多くあるだろうに。 (皇に報告して、皇がどう動かれるか、か。)  主要な貴賓達との挨拶を終えてから、皇の元に戻ったところ、すでに報告が行っていたようで皇から先に紫水に話を振られる。 「狂犬に絡まれていたようだな。」  皇の機嫌が分からないが、麗しいということはなさそうだ。 「恫喝されるばかりで、私が追い払う羽目になりましたよ。」 「あれでは無理だろう。蹂躙されるのに慣れ過ぎている。それに案外相手も悪かった。」 (普段、良いように蹂躙している側で良くおっしゃる)  内心でつっこみながら、皇が投げてよこした報告書にさっと目を通す。  瑠璃の宮に絡んだ青年は、ハサル伯爵家の次男で現王太子ジシスの乳兄弟のハサル=ディクレスというらしい。報告書によるとルクレシスの父王で始祖の直系であるとされるイル家が終わり、ディアの血筋に王権が移ったことで一気に台頭した新興の伯爵家らしい。血統主義者の熱狂的な筆頭だそうだ。  後ろ盾を得る為に密かにアデル帝国ともつながっているようだ。今回、前もってつけていた諜報によると天中節の騒ぎに乗じて、皇都でアデル繋がりの商人とも会っていたようだ。あの態度は単なる嫌がらせだけとは言えない、何らか狙いがあると見て良いだろう。  この報告書で瑠璃の宮を皇主催の晩餐とは言え、一人にさせるのは危険だということが分かった。普段は内宮で暮らしており、手を出しづらいが外宮に出てくるこの時期の下調べをされているやもしれない。どのような画策をしているかまでは分からないものの、今年とは言わず、来年、再来年と狙われるかもしれない。 「犬は始末しろ。我の膝元で策を弄するとは、舐められたものだ。」  御意、と拝跪する。ハサルの次男は役目を終えてランス国に戻る途中で、不幸な事故に遭う。紫水は一瞬でそう算段する。
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