9-1.贄

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9-1.贄

「後で部屋に来させろ。後は直接聴く。」  紫水が命を実行する為に御前から辞そうとしたその背中にもう一つ付け足された。 「…まだ天中節も残っておりますから穏便に」 「小言はいい。さっさと行け。」  紫水の苦言はうっとおし気に打ち切られた。機嫌はよろしくないようだ。瑠璃の宮の明日が思いやられる。 ===========  皇の召命を受けたルクレシスは全く気が乗らなかった。気が乗ったことなど無かったが、侮蔑された行為を自分は浅ましく進んでするのだ。  皇の命をうけた侍従に伴われて、皇の宮へと向かう。 「先は躾のなっていない犬が騒いでいたようだな。」 「我が国の者が大変失礼申し上げました。」  今夜のことはすでに皇の耳に入っているようだった。自国の責のため、皇の足元にルクレシスは叩頭して許しを請う。 「お前にどうこう出来るとも思わん。しかし覚えておけ、我は自分の持ち物に手出しされることが好きではない。相手には相応の報いを受けて貰う。」  その実、皇は不愉快極まりなかった。自分の手の内に飼っている者がちょっかいをかけられ、その事に心乱され、その事に心囚われている。早々に憂いは無くし、誰のものか分からせねばならない。 「そう言えばレンダス伯爵の信仰の篤いご息女が修道院入りするんだったか。シザ教の立派な聖職者の話は有名だが。」  散々と皇国の皇制を不道徳で、皇の男色を野蛮だと批判するシザ教の欺瞞を嗤う。 「母君は運が悪かったようだな。それも止むなしか。」  叩頭しているルクレシスの頭に怒りで血が上ってくる。 (…運?それだけで)  母は運だけで、あれだけ苦しめられるのか。手籠めにされて、望まぬ子を孕んで、責められ続け、利用され続け、あまりに哀れではないか。  怒りは母や自分を虐げ続ける者たちへの怒りなのか、それを“運”という一言で片付ける皇への怒りなのか。遍く民に恵みを与えるとされるシザ神の裏切りへの怒りなのか。 「貴族の権力闘争ではよくある話だ。」 「…母上は巻き込まれただけです…」 「それも貴族の子女である以上仕方のないことだ。」 (…仕方がない…仕方がないのか。…仕方がないで終わるのか。) 「なぜ、なぜ、母上が…彼女ばかりが…」  ルクレシスには唯一優しく接してくれる人だったが、いつも泣いていた。泣きながら、「どうして」と繰り返していた。どうして自分だけが責められる。どうして子が出来たのかと。  元凶となる自分が王子として認められたため、やっと静かに過ごせるだろうと思っていたのに、どうすることも出来ない自分の無力さと彼女を苦しめる為だけの自分の存在に絶望する。 (…産まれなければよかった)  産声を上げたその時から自分は間違っていたのだ。  頭が割れそうに痛む。怒りが痛みで塗りつぶされていく。目の前が真っ白になる。 「そうであるようにお前の国が、お前達に求めるからだ。お前達は贄に選ばれただけだ。」  行く末は絶えることが必然の血脈への不安は、その血を穢した女への怒りに転化される。その女を責めている間、純血への幻想を抱いていられる。半血のルクレシスを生かしておけば、他の血の濃さに安心出来る。  火石の採掘量が落ちても半血のせいで、正統なる血筋が昔の繁栄を取り戻してくれると信じ込める。 「お前達が苦しめば苦しむ程、安心する者が居て、そうやって国が成り立つのだ。」  皇の声は穏やかで、むしろ生け贄となったルクレシスを憐れむような宥めるような響きがあった。皇の手が床に座り込むルクレシスの腕をとり、引き寄せる。 「なぜ私でなければ…」  無意味な問いだ。それは誰にも答えられない。皇であっても答えられない。 「いっそのことその血を根絶やしにするか?」  皇が慈愛に満ちた目でルクレシスの涙を流す濃紺(ランスルー)を覗き込む。 「あのような小国など兵を二万ほど向ければ、たやすく瓦解しよう。兵のつく頃は丁度、刈り入れの時期だろう。畑を蹂躙されれば戦うまでもなく、飢えて民衆は勝手に死んでいく。残った貴族どもの首を打ち取り、国が亡くなれば、それでお前を縛るものはなくなる。」 「お前が望むのであれば、叶えてやろう。お前が責を負う必要はない。我の命で我の名の下もとに葬りさってやればいい。」  滂沱の涙を流すルクレシスの白金の髪を皇が優しく撫で付ける。 「…滅ぼす…」 「お前が我に全てを明け渡すなら、お前の責は我が負ってやろう。」  ルクレシスの目の前に一般参賀で集まっていた民衆の顔がちらつく。あの何百倍何千倍もの者達が皇を頼って生きているのだ。  あの一人一人に家族がいて、貧しい場合もあるだろうが与えられた環境の中で細々と生活を送っているのだ。それらの生活全てを、この国では皇が抱えている。仮に今上皇が倒れても国の均衡のために次の皇が現れ、その者に託される。それが皇の責となっている。  ルクレシスはランス国の国民の生活を見たことがない。因習にとらわれたあの国でも日々生きている民衆がいるのだ。その生の責を引き受けるのが王族の役目とすれば、望もうが望むまいと王族として、ルクレシスもその責を負っているのだろうか。 (皇にその責を明け渡す…楽になれるのか…)  何もかもが灰塵に化せば、ルクレシスはこれまでから自由になれる。  ここで好きな学の講義を受け、黒曜の宮や赤水晶の宮と気安く話し、侍従達に大切に扱われ、皇の求めに応える。  生まれのことで責める者は誰もいない。豊かで充実した日々を送れるだろう。過去は陰鬱で苦痛ばかりだった。  生国は自分にとって温かくなかった。その国が蹂躙されれば、人々のささやかな日常はなくなる。それをざまあをみろと言えるか。 「母を、母を助けて下さい…血が負った(ごう)は私が…」 「それで良いのか?」  ルクレシスは無言のまま首肯した。そこで暮らす人々が無自覚に贄の上に立っていようとも、どれだけ恨みに思っても滅ぼすという決断は出来ない。血の呪いを引き受ける覚悟も方法も分からないが、ただ母だけは解放されてほしい。しかし何の手立てもない自分では目の前の力ある者に縋る他はない。 「ランス国は近いうちに自滅するか、他国に侵略されるだろう。それはどこの国も分かっている。今、兵を出さないのは、火石の毒を自国が引き受けるのは面倒だからだ。」  皇の言うようにランス国は時間の問題だった。しかし、攻め込んで、火石を我が物にしようとする国が出ないのは、火石を採掘、精製する際に出る鉱毒で採掘従事者の寿命が極端に短いことに起因する。  ランス国は閉ざされた土地柄、主な産業が火石の採掘と精錬しかない為に、その事に民衆が気付き、問題視する事がない。大陸諸国からすればランス国そのものが大陸のエネルギー生産の為の贄である。火石は欲しいが誰も毒は負いたくない。しかし、その生贄の息もすでにか細い。 「そんな国でもお前は引き受けるか?」  ルクレシスは皇の問いに答えられない。答えられるほど、国のことを知らない。引き受け方も知らない。 「皇は、なぜ、この国の皇なのですか?」  皇は太陽から遣わされた地上の神であることは皇国では必然であり、そのことに“なぜ”と問うこと自体滑稽な質問である。しかし、ルクレシスにはただただ不思議でならなかった。  他国は王位継承権があって世襲されていく。至極わかり易い。皇国の太陽から遣わされるというのは何の比喩なのか。皇が皇たる由縁は何なのか。皇はどうやって皇になるのか。全てを支配出来るようになるのか。  皇を見上げる。黒曜石よりも深い黒の瞳だ。下らない問いだと一蹴するでもない。  ルクレシスの身体を上まで引き上げられ、耳元に唇が寄せられた。控えている者達に決して聞こえぬように、しかしはっきりとルクレシスの耳に届く。 「皇がこの国の贄だからだ。」
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