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10-1.祭
結局、ルクレシスは夜伽役を終えて昼過ぎまで惰眠を貪ってしまっていた。皇を受け入れていた場所に鈍痛と腰の重さが残っているものの、体調はそれ程悲惨ではない。
晩餐には列席出来そうだと胸を撫で下ろす。昨夜、自分から情けを強請っておきながら起き上がれなくなっていたら、今度こそ役立たずの烙印が押されてしまうだろう。
不思議と気持ちも凪いでいる。
これまではジシス達に嬲られると暫く悪夢に魘され、いつまでも自分を責める声が耳に響き続けるので、それを意識から引き離すために現実逃避する事が多かった。その生気に乏しい様子に下男下女は常々言っていたものだ。「人形の世話をしているみたいで気味が悪い」と。
取り巻きと対峙した時の絶望感は不思議と遠くなっている。皇を依り頼めば何とかなるという思いは依存心というものかもしれないが、皇国の国民は皇のその強さに服しているのだろうと思う。
参賀で皇の名代である宮が姿を顕す毎に上がる歓声。異国から来たばかりのルクレシスは皇国に何ら貢献したこともない。宮というだけで、ルクレシスがバルコニーに立つと上がった歓声は、確かに皇の威光が民衆に根付いているためだろう。
手早く昼食を済ませると早くも晩餐のための身支度が始まる。香油を塗したり、髪を巻いたりと忙しい。衣装の重さで疲れてしまうルクレシスを慮って、着付けは開始のぎりぎりまでは待ってもらえる。
あまりに目まぐるしく衣装から装身具まで変えていくので、出席者が違うし先日のものでいいのではないかと言ったものなら、側仕えが大恐慌を来してしまったので、今は口を噤んでいる。
「宮様は皇に次ぐ貴き方で、皇の名代をも勤められますゆえ、同じものなど滅相もございません!皇国の威信にかけてお衣装のことで宮様に恥ずかしい思いなどさせません。今日の物は何がお気に召しませんでしたか?」
何か気に入らなかったから、今日の衣装について口出しをしたのだと思われたようだった。ルクレシスは豪奢な着物が一度しか着られないのは勿体無いというただそれだけの考えだったので、全力で説得にかかって来た侍従長の剣幕に慌てて何も問題はないと伝えて、あとは大人しく衣装係に任せることにした。
支度の進行具合を側で見守っていた侍従長のもとに一通の手紙が届けられた。
「赤水晶の宮様からのお手紙でございます。」
侍従長から手渡された手紙を開くと、豪快な蹟で内容も至極簡潔に、明日、皇都の天中節を観に行こうという誘いが書かれていた。
「如何なさいますか?」
「外に出られるのか?」
ルクレシスは驚いた。
「もちろんです。」
侍従長は笑顔で頷く。
ルクレシスは暫く考える。
「…外に出て、…何をするのだろう?」
ルクレシスは外に出る、出たいということを考えたこともなかった。これまで外に出たことは、本当に数える程しかない。生国では幽閉先が変わるので監視付きで馬車に乗せられた時、生国から皇国にやって来た時、祭祀の予行のために神殿をおとなった時、それ位である。何か目的があるから外に出るが、外出そのものを目的にするなど考えたことがなかった。
「赤水晶の宮様は、市中で行われている天中節にご一緒にとお考えのようですよ。沢山の出し物もございますし、屋台も出ます。楽しいかと存じます。」
皇も赤水晶の宮様からのお誘いに関して、体調を優先して問題がなければ許可を下すと、既に言付けられているとのことだった。
不安もあるが、誘いを断るのも極力避けた方が良いだろうし、侍従長も熱心に勧めてくるので、招待に応じる旨を返書してもらった。
外出にはもちろん護衛や付き人が必要ではあるが、変な胤が入り込まないように外出が禁じられる後宮の女性とは異なり、男性ばかりの宮にはそういった意味での外出禁止はないとのことだった。
とは言え、皇の宮が他の女性や男性と通じることは無論のこと皇への裏切りとなるため、即刻、宮落ちするという暗黙の規律はある。特に皇の寵童である夜伽役が皇以外と関係したならば、皇の寵愛を一気に喪い、厳罰に処されるだろう。
宮に許されているのは、性欲処理を水の神官に委ねることだけだ。
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翌朝、赤水晶の宮が瑠璃宮まで迎えに訪れた。
ルクレシスは私的に外に出るだけなので格式張ったものではなくカジュアルな装いである短衣を着せられていた。天中節であるので皇からの祝福を象徴する黄色を基調に、華やかな装飾が散りばめられている。
市井の者たちからすれば、皇などその姿を遠くに見ることも叶わない遠い存在で、宮であってもその姿を一目見られるだけで太陽の祝福を預かると考えられている。侍従長の用意した服は庶民へも皇からの宮へ授けられている多大な恩恵を示し、その尊い姿を見る幸福に預かった者に豊かな祝福を感じられるようにと選ばれた装束だった。
「お、綺麗にして貰ったな。早速だが、皇のところに行こう。まだ内宮に居られると聞いているしな。」
赤水晶の宮はルクレシスに対して、綺麗や可愛いとすぐに言う。可愛いと言われると複雑だ。綺麗は黒曜の宮のような人に言う言葉だと思う。黒曜の宮にも彼はことある事に言っているが「自分より小さければ可愛い、きらきらしていたら綺麗。貴方の語彙はそれしかないんですか」と呆れられている。
赤水は皇が謁見に入る前に行くぞ、とルクレシス急かした。外出のための挨拶にでも行かねばならないのだろうか。皇は自宮で謁見用の正装を用意させているところで、そこに二人で拝跪する。
「皇、宮城街におりさせて頂きます。…つきましては…」
赤水が顔を上げて笑うのに、皇は呆れた様子で侍従長として侍っている紫水の宮に二つの金子を持って来させる。
「給金を貰っているくせにいまだにたかりにくるか。」
「お小遣いはまた別でございます。ほら、瑠璃の、ありがたく頂いておけ、皇からのお小遣いだ。」
ルクレシスは赤水晶の宮から押し付けられたずっしりと手の平に重みを感じる布袋をまじまじと見る。絞られた口からの隙間からは硬貨が覗いている。
「本物?…物が買えるんですか?」
思わず口から出てしまう。
初めて硬貨を見た。講義で貨幣の話はされたことがあった。これが売買の媒介となる貨幣というものなのかと手の内の物を見る。
袋はずっしりとしている。
「本物って、お前なぁ。さぁ、皇に礼を言って、街に行くぞ!」
赤水晶の宮がルクレシスの真贋発言に闊達に笑う。
「あ、あの、有難うございます!」
勢いよく叩頭する瑠璃の宮の顔には喜色が浮かんでいた。赤水は驚きながら、瑠璃の宮のこぼす微笑に目を眇める。大分と気安くなったと思っていたにも関わらず、一昨日の晩餐では真っ青になって瑠璃の宮は倒れんばかりで何があったのかと心配していた。何か気晴らしになればと街歩きに誘ったのだが、また笑顔を見せてくれて良かった。
警護を増やすように紫水の宮に言われ、多少身動きがとりにくくなった上、ほんの半日で帰ってくるように言われてしまったが。
皇はどこか憮然とした表情をして、二人に構うことなく、謁見の間に向かっていった。
「瑠璃の宮、あんな表情もされるのですね。」
紫水はどこか不機嫌そうな皇に声をかける。
「あれほど喜ばれるとは、上げる甲斐がございますね。」
「子ども騙し程度の額だがな。中身が子どもだから丁度良いか。」
硬貨を貰って喜ぶとは三歳児か、と皇が憮然して言うのが、面白い。思わず笑ってしまいそうだ。
瑠璃の宮には月々の給金は先の数百倍は支給されている。伽ごとに何かしら宝飾品を下賜されており、その目録を用意する侍従達が毎度苦労するほどだ。それらに勿論、型通りの謝意は届くが、あれしきの金子でああも明からさまに喜ぶとは、微笑ましいではないか。
額の多寡ではなく、貨幣そのものを初めて見た興味からだと分かってはいるが。
いつもの何も考えていないような表情ではなく、濃紺の瞳を大きく見開いて爛々とさせる様は元の顔立ちが整ってるだけに可愛らしい。
だからこそ不機嫌な皇の様子に紫水は呆れる。
(素直に可愛いとおっしゃられたらいいのに。)
皇は狭量ではないが、寛大でもないので、茶化すようなことは口をつぐんでおく。
「あれの生母の件はどうなった?」
「ランス国に赴任している神官長宛の書簡を用意しております。丁度、統制をかける良い時期ですので爵位を持った者の二親等までは身の進退について全て審議会に掛ける法案を通すようにせよ、という内容です。」
つまり、結婚、引退、引越し、あらゆる進退について黄皇国に許可を得ろということだ。アデル帝国との結びつきについても制限する必要があるので、法という形でランス国の利害関係に監視を巡らすこととなった。
前王妃も王妃となったのを機に女公爵位を叙勲されている。彼女の身の処し方についても皇国の神官の目の行き届かぬところで采配されぬように特に通達してあった。
「これで関知することは出来ますが、ご生母様自身の落とし所は如何致しますか?」
「女の望むようにしろ。こちらには特に利用価値があるわけでもない。望む場所へとこちらがお膳立てすれば良かろうよ。」
紫水は御意と答えて、ランスの高位神官に宛てた書簡を持たせた早馬を送り出した。
同時にもう一つの命を受けた密使の早馬が皇都の裏門からでていった。この密使はランス国に帰国途中であったハサル卿の次男ディクレスを乗せた馬車が、馬の暴走によって不幸にも谷底に落ちて亡くなってしまったという確かな報告を数日後に紫水の宮の元に持って帰って来た。
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