1-2.揺蕩う

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1-2.揺蕩う

 ルクレシスは心地よさに浸りながら微睡んでいた。温かい水の中に揺蕩って、包まれている。 (気持ちいい…) (ずっとここに居たら?) (ずっと…?) (ここなら嫌なことも、痛いこともない) (ずっと) (そう、何もしなくていいし、何も辛いこともない)  こんなに安心したのはいつ以来だろう。いや、無かったかもしれない。まるで産声を上げる前の母の胎内に戻ったようだ。 (でもだめだ…戻らないと) (戻ったら辛いだけだよ) (でも戻らないと) (どうして?) (…だって…)  ーーー皇のところに戻らないと  徐々に心地よい場所からルクレシスの身体は浮上していく。明るい、そう瞼に感じた途端、身体を襲う痛みに呻く。 「…か、は…」  全身が悲鳴を上げている。声すら出ない。全身の関節が痛い。身体が泥に埋まっているかのように重く鈍い。 (ほら、辛いだけだよ)    喉が渇いて、痛い。水を求めると誰かに抱えられて、水が口に含まされる。全然足りない。必死で嚥下しようとするが、喉が酷く痛む。大きく飲め込めないルクレシスに、少しずつ少しずつ温い水が流し込まれる。  水を飲むことにすら疲れてしまうと、逞しい腕から(すべ)らかな敷布に身体が降ろされる。肌に当たる絹布は心地良いが、薄ら寒い。寝台はどこも柔らかな筈なのに、節々が当たって痛い。  夢の中で感じた心地良さは此処にはない。  時々唸りながら、ルクレシスは発熱に耐えていた。  最早馴染みになった老医師によると、裂傷などの酷い傷はないので熱の原因は喉からだと言うことらしい。天中節の疲れからかもしれませんと。  喉に効くという飲み薬と、後孔の柔肌や粘膜の擦れて傷んでいる所用の軟膏が処方された。  医師が日参してはルクレシスの様子を診ていく。 「はい、お口をお開けください。」  喉奥の腫れの具合を診る。次はルクレシスにとっては苦手な内診だ。 「少し失礼致しますね。」  老医師が後孔に器具を挿し入れて器具の嘴状の部分を広げる。そうして体内の治り具合を確認するのだ。  ルクレシスは脇を下にして膝を抱える様な格好で居るように指示されて、側仕えから渡されたクッションをお腹にきつく抱いて耐えた。挿し入れられる硬質の感覚が怖い。最初に医師は怖がらないようにか処置に使う器具を見せてくれた。見た時には先はごく細く、奥まで入らない長さであった筈だが、深く穿たれているように感じてしまう。そして開かれた後孔が空気に晒されてスースーとして気持ち悪い。体内までまじまじと見られているという羞恥心に耐えねばならない。 「粘膜の方はきれいに治って来ておられますよ。やはり、身体の相性がよろしいのでしょうな。」  医師は感心した物言いだ。割り開いた部分に軟膏を塗布されて、器具が引き抜かれた。医師は診察に同席している水の少年宦官に後2日間は日に3度、軟膏を塗布するように指示していく。ルクレシスにとっては嫌な話だ。使命感に燃えている水の少年は、後孔が爛れたり、美しい色味がくすまぬようにと、絶対に手を抜いたりしないため、長い時間屈辱を強いられるのだ。  熱発している時は朦朧として過ごしたが、熱が引くとなかなか寝つきにくい。始終寝台に居るせいで寝付けないのかと考えるが、侍従長には後三日は安静にするようにと言い含められて、今日も寝台の上に留め置かれている。確かに節々の痛さやだるさ、喉の腫れの名残りはあるが、ずっと寝て居なければ駄目だという感じもない。 (…落ち着かない…ざわざわする…)  ずっと寒気が抜けなくて、肌が騒つく。自分の焦燥に似た感覚を持て余して、何冊も本を持ってきて貰った。そうでもしないと気が紛れない。  だが、読書も先程取り上げられてしまった。 「本も頭が冴えて身体が安まりません。食事を全部食べられるようになるまで、これ以上はいけません。」  本を途中で取り上げられて、柔和な侍従長には珍しく厳しい物言いだった。  本もなく、茫然と寝台の上に居ると時間が経つのが酷く遅い。  窓の外を見るしかやることのなかったあの頃、どうやって時間を過ごしていたのかもう分からなくなってしまった。日がな一日、窓の外の景色もこれといったものでもなく、日によって変化するでもない。冬には一面真っ白に雪に覆われるのが大きな変化といえば変化であった。しかし一度雪に覆われると春になるまで、それこそ一面真っ白で全く変化が無くなった。地下室に入れられていた時には、それこそ眺めるべき窓もなかった。換気のために開けられていた小さな穴から差し込む外の光で日が暮れるのが辛うじて判るくらいだった。  改めて思い出すと、よく気が狂わなかったな、と我が事ながら思う。 (贅沢には直ぐに慣れるものだな…)  ルクレシスは自嘲する。今は望む前に必要なものが用意され、毎時間、皇国有数の識者が直接講義を持ってくれる。着る物もふんだんに用意されて、食べ物も食べ切れないほど用意される。いつも誰かが気遣ってくれていて、暖かく接してくれている。  それでも安心出来ないのは何故か。  寝付けないのが何故か。  肌触りのいい夜着を着せられていて、少し動けば汗ばむくらい暑い季節にも関わらず、広すぎる寝台で一人だと言うのが薄ら寒く落ち着かないのだ。一度人の温かさに味を占めた身体は貪欲で嫌になる。夜伽の最中に泥に引きづり込まれるあの瞬間を心地いいと感じてしまう。 (また召命されればいいと思っている自分は、ジシス達の言うように淫乱だ…)  だが夜伽として殆ど役に立っていない自分は早々に飽きられるだろう。そうなったら、どうなるのだろう。  それが“寂しい”という感情で、また捨てられるのではないかという“不安”なのだと、ルクレシスはまだ自分の感情に名付けられるほど慣れていなかった。
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