2-2.不安 ※

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 紫水は皇の勅書を携えた侍従長として瑠璃宮を訪れた。先触れを出していたため、すでに瑠璃は正装を纏って、宮の応接の間に拝跪していた。 「皇の勅書だ」  盆に捧げ持っていた詔書を畏った瑠璃が受け取って、中をあらためる。  勅書の内容は行幸の夜伽役に任ずるというものだった。 「皇は年に一度、神殿へ直接加護を下賜されるために地方に行かれる。今年は()に行幸なされることに決まった。瑠璃の宮におかれては謹んで役を賜るように。」  そう告げると瑠璃の宮はもう一度拝跪して、是、と答える。  紫水は手振りで拝跪をやめさせ、まだ夜の疲れを残しているらしい瑠璃を寝椅子(カウチ)で休ませるように侍従長に言った。  移動は側仕えがさせるようで、瑠璃はさっと抱き上げられる。側仕えに抱き上げられて来るのも慣れたようで、何気なく側仕えの首に回されている腕が側仕えの逞しい首筋に対して細く白く脆い砂糖菓子の様だ。特に今は艶然とした情事の名残もとどめており、あの襤褸案山子のような少年がこうも変わるとは、と妙に感心した。 「天中節からあまり間がないが占術で今回の行幸の日取りは二週間後になっている。くれぐれも体調を崩さぬように。まぁ、それほど気負う必要はない。普段籠りがちな瑠璃殿への皇のお計らいだと思えばよい。」  皇や紫水にとっては火を起こしそうな場所を先につぶしにかかるという政治的な用件があるものの、瑠璃の宮は昼はただ気楽に外出を楽しんで、夜は皇をその身体で慰めてくれればよい。  街を通る時は当地の神官も高級男娼もいるだろうから、お役目も免除されてゆっくりと休むことは出来るであろう。 「そういえば、また食事量が減っていると聞いたが…」  以前よりは遥かにましな見た目をしているが、あまり血色がよくない。食事に言及すると、怯えたように身体を硬直させた。  いつぞやに食事をとらないことで皇の激烈な怒りを買ったらしいので、また咎められると恐れているらしい。 (あまり食べろ食べろと言っても、かえって逆効果だろうなぁ)  面倒だと思いつつも、皇(の周りに居る人間)の平穏のために、寵童の憂いは出来るだけ払っておくに越したことはない。 「何か気がかりでもあるか?母君のことか?」  紫水は瑠璃の宮に不調の理由を尋ねる。 「…いいえ、皇がお任せ致しましたので。」  顔を見るに無理にそう言っているわけでもないようだ。では、他は何か。 「皇の召命が多すぎるか?私から注進しておくぞ。」 「っいいえ、いいえ、滅相もございません。有難いことだと思っています。」  今度は紫水が言い終わるか終わらないかにかぶせるように否定してくる。必死な様子で頭を振って、縋るように濃紺(ランスルー)の瞳が紫水を見上げてくる。 (皇城のど真ん中で皇の召命が迷惑だと肯定も出来ぬか)  もっと気楽になれば良いのにと思う。丁度、赤水のように。 「まぁ、身体を動かせば腹も減るだろう。赤水を寄越そう。馬の乗り方でも教えて貰え。」  しかし、皆して手がかかる。侍従長として皇に手をかけるのは本務なので致し方ないが、黒曜も赤水も手がかかった。  黒曜は目が見えぬし、貧民の出のため、先ず礼儀作法に、訛りのきつい言葉の矯正をしないと表に出せない。教えさせねばならぬことの枚挙に暇がなかった。  しかし。彼は覚えが早い上に努力出来る人間だった。今では紫水にとっても食えない太々しい青年に成長した。皇にだけは従順で嫋やかな顔を見せるが、周りには手厳しく容赦がないため、恐れられている。表裏ではなく、皇至上主義で皇以外は馬鹿ばかりだかららしい。  黒曜の後に来た赤水は、大貴族の子息だから作法がしっかりしているだろうと思ったら、全く躾されていない野生児だった。宮中をひっかきまわし、暴れ回る。何を言っても大人しくして貰えぬ侍従長に泣きつかれた。あまりに酷い成績表に眉根を寄せた皇に「どうにかしろ」と土台無理な命令を受けたりもした。  最終的には赤水の勉学について皇は諦め、体術を好きなだけさせるようになった。剣技の才が有ったようで今は皇軍の花形となっているようなので良かったのだろう。  今は双方とも自立して世話もまったく必要ない。年より幼く見える瑠璃の宮の世話をつい要らぬ気をかけてしまうのは、黒曜も赤水も手を離れて、暇ができたからか。  いや、彼のことが気になるのは、彼の存在が異様だからだ。生い立ちでなく、皇の執着がこれまでにないという意味でだ。  皇にとって良い対象になればいいが、それはまだ未知数と言ったところだ。  烏滸がましいことを承知で言えば、皇にとって紫水は腹心の部下であり、黒曜や赤水は自らが育てた子のような存在だろう。黒曜や赤水が散々と何をやらかしても本気で怒ることはなければ、独占欲をむき出しにすることもなかった。  一方、瑠璃の宮に対してはあからさまに所有痕を残し、反応一つ一つに苛立ったり、逆に慈愛を見せたり、果ては首を絞めたりしている。あの脆さは泣き顔を見たいという嗜虐心と守ってやりたいという庇護欲と両方を刺激する。あまり他人に興味のない皇の心を動かすという意味では貴重な人材だが、彼にはそろそろ学んで頂いて、皇の気持ちを逆撫でにするのだけはやめて頂きたいものだ。  ランス国からの帰りの早馬が戻るのはもう暫くかかりそうではある。馬車で一ヶ月という距離のため早馬といえどもなかなかに時間がかかるのが鬱陶しいところだ。  使者が不幸な事故に遭ったことは既に知れているだろう。アデル派への牽制についても報告を聞く必要がある。出来れば行幸に出る前に片付けたい問題ではある。  皇の執務室に戻りながら側につく自身の侍従に指示を与えて行く。 「ただいま戻りました」  執務室に戻ると皇が黒曜に行幸中に任せる仕事について話をしているところであった。 「皇、瑠璃の宮より勅書に従うとの言を。」  黒曜ならば下がらせる必要もないので、そのまま報告をすると、黒曜が気安い間柄だからか口を挟む。 「瑠璃の宮を行幸にお連れになるのですか?」 「ああ」 「私だけが皇都で留守番とは詰まらぬものですね。次は彼に代わって貰いたいものです。」 「異人に国を任せるわけにもゆかぬだろう。」  皇が顔を顰めて返す。 「私も被支配層の出ではございますけどね。あまり囲っておおきにならず、外の世界にも触れさせねば、いつまで経ってもあんな感じのままではありませんか?」 「体力がついたらだ。」  黒曜の言に、皇は憮然と答える。  黒曜もこれ以上瑠璃の件に口を挟むつもりもないようだが、紫水も常々思っていたことを直球で聞く黒曜をやはり太々しいなと思う。  座学の教師を付けさせると命があった際にゆくゆくは何らかの伽以外の役を与えるつもりだと推察していたが、一向に内宮のしかも住居区になっている奥宮から出す様子はない。  本当に夜伽のみを役目として仕込ませるにはもっと舞や楽も一通り仕込まねばならないが、閨房作法以外を受けさせる様子もない。しかも既に十六だ。  座学の教師は政治、経済、地理、歴史と教養レベルではなく実務レベルの教師を付けさせているようだ。  何か役目を負わせるにしても年齢的に皇国では仕事を始める十六に達しているので、年を重ねれば重ねるほどにどのような役でも入りづらくなる。何よりすぐにふさぎ込む質の彼は仕事で考え込む時間を減らしたほうが良いだろう。今の生活はかえって立ち止まることの出来る時間が多すぎる。  それなのに皇は確たる指示も与えず、夜伽として手元に置いている。 (…独占欲の強いことで…)
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