3-2.翻弄

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「レシア殿下、申し訳ございません。出すぎた真似を致しました。」  主人の命も受けずに勝手に神官を追い返した事を侍女が謝罪してくる。 「いいえ…水を…」  侍女はぱっと身を翻してグラスに冷えた水を持ってくる。  水を一口含むと、興奮していた身体にすーっと落ちてくる。熱に浮かされたようになっていた頭も少しましになる。  異国の高官相手に随分な醜態を晒したことや、部屋付きの侍女たちがひそひそとついに気が触れたと噂話しているだろうこともどうでも良くなった。  どうでもいいと思うととても気が楽になる事が分かった。 「もうどうでもいいわ。」  自嘲の嗤いを含んで、ソファにぐったりと腰を下ろす。 「もう修道院で勤労奉仕でも、司教のお世話がかりでも…」 「!そんなっ!」  成程、宰相が今まで捨ておいてきたレシアごときの所に慌てて来たのは、新しい法案に動転してであろう。本人の意向だと、レシアを勤労奉仕に出したかったのだろう。  宰相の言に従って国のために尽くすのか、皇国の施しによって自分が楽になる事を取るのか、その選択を迫られているらしい。 「レシア様は何かやりたいことや、行きたいところはないのですか?」  王族に入るまで伯爵家で使っていた敬称だけでレシアは久々に呼ばれる。王族となってからは殿下という硬い響きであったから、懐かしい感じがする。 「…そうね…考えても分からないのよ…」  改めて思う。レシアはただただ流されるままにここまで来た。泳ぎ方も知らないし、知ろうとしなかった。流れに逆らおうという意思もなければ、流れがどこに向かっているのかを見定めることすらしなかった。 「そんなこと、考えたこともなかった…」  レシアはそのように育てられたから、とも言えるが、同じ女学院に居て、毎日同じ説教を聞いていた友人でも跳ねっ返りの娘もいた。  その時は女なのに慎みがないとか、我が強い子だと親達が眉を顰めるので、ああなってはいけないと、遠巻き見ていた。  あの級友がどうなったのかは知らない。親が付き合うなというので、親しくしなかった。あの家とは仲良くなさい、と言われて、親しくした令嬢もいた。ただ、レシアがこうなってから一度として話し掛けられることはなくなった。  流されるがままに過ごしてきただけだ。何も疑問に思うことがなかった。    ルクレシスにも思考する力を与えないために伯爵は学を許さなかった。しかし今は皇国で学を与えられているらしい。  出来れば思慮深くなって、大河には流されるにもしてもせめて流れに棹さす力をつけて、自分のように運命に翻弄されるだけにならないようにと思う。 (贅沢を言うならば、幸せになってほしいけれど…と思う資格は私にはないけれど…)  愛おしく想う気持ちと同時に彼に全ての責任を転嫁してしまう自分がいた。否応なく生を受けざるをえなかった彼には何の責もないと分かっていても、ルクレシスの瞳はレシアの心を抉る。  逃げ続けるレシアに縋るような(ランスルー)で見上げてくるルクレシスが怖くて会いに行けないこともしばしばあった。  愚かな母親をただ無条件に慕う存在が、どれ程稀有な存在だったのか。 「本当に私は…愚かなのよ…」  その存在を否定しながら、今更幸せに成って欲しいなどと勝手すぎるだろう。  彼の存在を受け入れられなかったレシアは母親と称する資格はないし、そのことによって恩恵を被ることもおこがましい。 「そんなこと、ございません。」  侍女否定するが、レシアは緩く笑って、頭を振る。 「…今日は疲れたわ…少し寝室で休みます。夕の食事も要らないわ。返事は貴女が追い返してくれたから、もう暫く後でもよろしいでしょう。」  レシアは侍女を安心させるために微笑んで、一人で寝室に引き取った。  陰鬱な調度品に囲まれた寝室。カーテンも古く、どこか黴臭いくらいだ。せめてもの救いは寝台のリネンはいつも清潔なものがぴしりと掛けられていることだ。  ドレスのまま寝台に身体を横たえた。何だかとても疲れた。流されることにも、疲れた。 「きゃー!!!!」  城中が眠りにつこうとする時、元王妃の北棟に悲鳴が響き渡った。 「レシア様、レシア様!!!!」  辺りが騒然となる。 「早くお医者様を!レシア様!」  普段口さがない王城の侍女たちは声を失って立ち尽くす。  慌ただしく衛兵が立ち回る。  女主人に縋り付く侍女のお仕着せのドレスは血でべっとりと汚れていた。
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