4-2.遺志

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4-2.遺志

 天中節の空気も落ち着いてきた市街地とは対照的に、今度は行幸だと内宮内が慌ただしさを増す中で、紫水は早馬からの手紙を受け取って険しい顔にならざる得ない。 (大失態だ)  まさかこのようなことになると思っていなかったことが慢心であった。  「皇よ、こちらを見て頂けますでしょうか?」  封書を受け取った足で、気乗りしないまま皇の御前に上がる。  内容を口にするには憚れるため、分厚い書簡をそのまま皇にお渡しする。   ランス国にやった高位神官からの報告書を読み進めるうちに皇の表情も険しくなる。 「下がれ」  政務室で仕事をしていた全ての者が緊張した空気を感じ取り、さっと下がっていく。 「私が任されながらこのような事態となり、大変申し訳ございません。」  紫水は平伏し、額をつける。皇より命じられた瑠璃の宮の生母を保護するという事案が半ば不首尾となったことは、紫水の采配が甘かったせいだ。 「…良い。元より女の好きなようにしろと我が命じた。女の選んだ結果が最悪だっただけだ。お前の責というわけではない。」  固い声ながら皇は寛大にも紫水に赦しを与えた。 「…まぁ、最悪は免れたようだが。」  レシア妃は一命を取りとめている。  余程の意志で切ったらしく腕の肉が一線にパクリと開き、寝台の上は一面血の海と化していたと、そこには書かれている。  溢れ出た血が溜まって徐々に固まったために、失血死を免れたとのことだったので、死のうとした彼女にとっては不本意だったかもしないが、体の生きようとする力が彼女を此岸に引き止めたのだ。  シザ教で自殺は厳しく戒められているため、ラセル王が即座に箝口令を敷き、元王妃は急な病で倒れたとされているらしい。王族から自殺者を出すわけに行かなかったのだろうか。元王妃を表立って批判する声は封じられていると。  レシア妃が生死の境をさまよっている間、皇国の神官達は伯爵が手元に置いていた彼女の資産を洗い出した。前王は彼女のために幾つかの資産を残していた。それらには他国の辺境領地も含まれていた。しかし、それらの目録に彼女は目を通さないままに父に盗られたのか、渡したのか、全て伯爵家の資産となっていたのだ。  神官が可能な範囲で伯爵から資産を切り分けさせて、後見人に管理させることとした。精神状態から考えても妃自身の管理は困難と考えられたからだ。レシア妃は多量出血の後遺症なのか、精神状態のせいなのか、直後は全く動けず、言葉も話せない状態にだったと。  そして神官は前王の遺した資産の中から、他国の辺境領地をレシア妃の保養地とすると議会に通すつもりだと書いて寄越している。  妃にとってランス国内に安寧の地はない。ランス国の中枢も心身不調の元王妃を早く手放したい様子であるから、王族と云えど国外へ出る事も議会で承認されるという算段があると。  レシア妃は幸い、日に日に言葉も戻ってきており、脳そのものは壊れはしなかったらしい。問題は心の方である。それはただひたすらに平穏な場所で静養して、癒えるか癒えないか、それは判らない。人間の心は存外に脆くて強かでもあるし、強かなように見えて、簡単に壊れてしまうものだ。  本人の意向を叶えるはずであったが、神官は今は静養を優先としたと書かれていた。  生母の意思に任せると命じていたため、融通の利かぬ神官で、そのまま自殺幇助でもされたら目も当てられなかったから、よかった。  元々瑠璃の宮の憂いを晴らすための処置であったのに、生母が世を儚んで自死したと伝えようものなら脆弱な瑠璃の宮の方が壊れてしまう。  前王デシルは私費で隣国に別荘地を買い求めていた。一国の王が国を空けることは考えられないため、自分が使うために買ったわけではないだろう。難しい立場に立たされた伯爵の娘がしがらみを振り捨てて過ごすことの出来るようにか。  前王が亡くなって久しいが神官の報告では今でも前王の遺志で、いつでも主を迎え入れられるように整えられているとのことだった。   (何とも中途半端な男だな。自ら犠牲にした女への贖罪か。)  たとえ半血の子が出来たとしても王族にすることは困難であることは分かっていただろう。その上で、女を犠牲にした。  前王にどんな勝算があったというのか。  結局は自らの力では婚外子を嫡男にすることは出来ず、認知すら出来なかったというのに。  前王が遺した遺産で、レシア妃の保養先は確保されたとは言え、紫水としては釈然としない。  前王は犠牲を払ってまで、息子に何を望んだのか。何もないのであれば、瑠璃の宮はなんと哀れな存在か。  皇が嘆息して分厚い書簡を執務机に手荒く放り投げた音で、紫水は皇に向き直る。 「瑠璃の宮にはいかように伝えましょうか。」  仔細は伏せて、結果だけ伝えるか。何に煩わされることなく他国で過ごしていると。 「…保養地行きが決まったら知らせろ。」  皇は紫水にただそう命じた。
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