5-1.亡霊

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5-1.亡霊

 泣いて、啼いて、そのまま疲れて寝入ってしまった夜伽役はラーグが翌朝、寝台から身を起こしても全く起きなかった。目を閉じていても腫れたまぶたで散々泣いていたことがわかる顔だ。  紫水が朝の挨拶に来ても死んだように眠ったままだった瑠璃の宮は、ラーグが朝議に出た後に宮の迎えの者に抱かれて部屋に戻ったらしい。 「過ごされたようですね。彼は随分と泣かされたようで。」  朝議の間に移動する最中に紫水が揶揄してくる。泣き腫らした目を見たのだろう。閨番の侍従からも仔細の報告を受け、何があったかを知って、朝の挨拶に来るのだから白々しい。 「五月蝿い。何が言いたい。」  悪くなかった機嫌だが、紫水に自分の持ち物を見られた不快感によって水を差された。  あれを他人に見られるのは気に入らない、とはっきりと感じる。閨番も神官も寝所であの身体も啼き声も知っているというのは今更だが、面白くない。  皇位に就いてから一秒たりとも側に人が控えて居ないことなど無く、ラーグにとって使用人達は人ですらない空気か背景だ。  性交を見られることはなんとも無いことだったはずだが、どうやらあれの事になると、瑣末なことが気に障るようになるらしい。ラーグは自分が瑠璃の宮に関することに狭量になることを自覚した。  今も、紫水のいつもの軽口にまともに応じてしまっている。その事に苛々とする。 「今朝早馬が着きました。」  紫水は皇の不機嫌は受け流して、早朝に早馬で届いたばかりの報告書をラーグに手渡してくる。歩きながら、報告書にさっと目を通すと、瑠璃の宮の生母の隣国入りの日程が決まったとのことだった。後で仔細を話せと命じて、長ったらしい報告書は紫水に返した。  レシア妃は移動できるほどまで、回復したらしい。一命を取り留めたのも奇跡に近いと言われて居たので、良く復調できたものだ。  後で報告を聞くとはいっても行幸前とあって、通常の政務に加えて前倒しの業務や引き継ぎ事項などもあって、息をつく間もないのが最近の政務室の状況だ。  ラーグは政務を前倒しすべく、ひたすら黙々と決裁を行っていく。黒曜が代行するとはいえ、皇でなければ決裁できない事案は先に片付けるしかない。  内宮侍従が決裁待ちの書類を読み上げていくのに、諾・否・差戻で応じていく。 「李州からの治水に関してですが。」 「幾らだ。」  内宮侍従が慌てて書類を繰って、申請額を読み上げる。 「多すぎる。あそこは富裕層が多い、地方で特別税で賄え。否だ。」  裁務部の審査と高位神官と貴族高官によってなる審議会を通ってきた割に、業突く張りな救済金要請に呆れる。李州は比較的裕福な土地であり、中央でも力を持つ貴族が赴任しているため、ごり押しで審議会まで通してきたのであろう。審議会の中にもこの救済金によって得する連中がいると見える。  審議会を通ってきた案件を皇が却下することで起こる審議会との軋轢も面倒だが、最近の審議会の助長もうっとおしい。そろそろ重鎮どころに引退してもらってもいいかもしれないと考えながら、次の案件にも決裁を行っていく。 (くだらん)  思考する頭とは別に、「国のため」「民のため」「皇のため」という名目で奸計に勤しむ神官どもも貴族どもに付き合わされる皇という立場を心から下らないと思う。  あいつら(貴族・神官)は皇を崇める振りをしながら、いかに自分の有利になるように皇を動かすか、皇を駒の一つとしか思っていない。  上品な顔、徳の高そうな顔をしながらやっていることは、我先にと地面に散らばる砂金を血なまこになって探し、奪い合う浅ましいもので、そんな世界を守るために皇がいるのかと思うと馬鹿馬鹿しくなる。  先皇は十八で《夜明け》に立ち、四十二歳という齢で没した。  晩年は完全に精神の均衡を崩しており、奥宮でただただ皇を慰める寵童を囲って閉じこもっていたらしい。ある日突然、周りの目が離れたその一瞬に窓から飛び降りて、そのまま陰の宮に迎えられたというから因果なことである。 (亡霊にやられたのだろうな)  ラーグにとっても先皇を蝕んだ狂気は馴染み深いものだった。  あの《夜明け》から皇という存在は、何処か狂ってしまっている。精神を狂わせる薬を使わされ、同朋を殺し尽くした後に残っている正気などないだろう。  《夜明け》は強い者が生き残るとは限らない。そこには運としか言いようのない要素が大きく働く。心の弱い者が生き残り、明けない夜を彷徨う亡霊に取り憑かれ、一年と保たないこともある。  ラーグも時々、亡霊に出会う。それは自室の寝台の上であったり、宮城の廊下をふと曲がった時だったりする。  三歳下のあどけない笑顔をよく浮かべていた後輩神官が血濡れた姿で立っていたり、「死にたくない」と今際の際のすがってくる親しかった神官だったりする。 「苦しまずに死ねたか?」  ラーグは彼らに会うと、内心そう問いかける。そして、皇として生きることにどれだけ失望しようとも、贄として彼らの呪詛を全て引き受けるしかない。  先皇は亡霊の怨嗟や呪詛に呑まれて命を絶った。いや、亡霊たちに永遠の平穏を授けてもらったのか。  死んでいった者達がどう思っていたのか知る術もないが、皇となったラーグを哀れむように物憂げな目で見てくる同朋も居る。”皇”という不自然な生き物になって、”ラーグ”という一人の人間は存在しなくなった。そのことを哀れんでくれているのだろう。  ラーグの決裁の速度に内宮侍従が追いつかなくなったところで、紫水が茶を淹れてきて、一息つくことになる。 「それで、報告書の内容は」  紫水の淹れた熱すぎず温すぎず適温の茶に口につけながら問う。ラーグは熱すぎるのは苦手だ。  瑠璃の宮の生母が全く動けなくなったのは一時的なものだったようで、今は歩くことも話すことも可能になったという。しかし、深く切った左手だけは神経と筋がやられてしまったらしく、今後動かすことは叶わないだろうということだった。  心配された精神状態もむしろ穏やかで、安定しているということだった。左手は回復しないであろうことを医師が衝撃を与えないように言葉を選んで遠慮がちに伝えた時も「自分でやったことですから」と微笑んだという。  隣国に移ることを説明した時もそのような館があったことに驚きながらも、了承したとのことだった。  先皇が窓から飛び降りたことを考えれば、全てから解き放たれなくなって彼女が手首を切ったのも分からないことでもない。  生き残ったことが彼女にとって良かったのか、悪かったのか、それは未だ分からないだろう。  しかし、これで瑠璃の宮が心配する生母が、さらに国から搾取されるようなことは免れたと言える。 「瑠璃を呼べ」 「…瑠璃の宮はまだ床から起きれないようです。」  紫水が答える。皇呼ぶだろうと踏んでいたのか、既に宮に人をやっていたらしい。 「今はよい。夕刻に呼んでおけ。」  政務が終わって自宮に戻ってから伝えることにした。
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